雲雀 万葉集の和歌とトゥルバドゥールの詩を通してみる日仏の美的感性

ヴァンタドゥールの詩では、雲雀は空高く舞い上がり、彼方の世界へと向かう。その姿は、恋愛の対象を自分よりも高いところに置き、その人を憧れる恋愛観の象徴となっている。

雲雀の上昇は、あたかも快楽物質エンドルフィンによって心が高揚し、理性の抑制が効かなくなった状態、つまり我を忘れた状態、忘我(エクスタシー)を表現している。

他方で、詩人はまだ理性に支配され、上昇の後の墜落を恐れる気持ちが残っている。そのため恋愛に身を任せることができずにいる。
それだからこそ、ますます、全てを忘れて天へと上っているように見える雲雀の姿を羨ましく思う。墜落さえ恐れない情熱が、恋の強さに他ならない。
踏ん切りがつかない詩人の心の中では、渇望だけが強くなる。

トゥルバドゥールの詩以前に文学で扱われた恋愛は、男女の駆け引きや遊びの一種であり、肉体的な所有が中心的なテーマだったと言われている。例えば、ローマの詩人オウィディウスの『愛の技法』などに描かれた恋愛とは、そうしたものだった。

実は、日本でも、『万葉集』の相聞歌では、直接的な肉体関係が歌われることが多かった。「寝る」という言葉が頻出し、「紐解く」「寝処」「手枕」などの語もしばしば出てくる。

トゥルバドゥールの詩では、恋愛は肉体ではなく、精神の問題となる。
その際、愛する相手を欲望の対象として自分の下に置くのではなく、憧れの対象として自分よりも上に置く。
その距離が大きければ大きいほど、対象に到達するのは困難になり、それに比例して、渇望は大きなものとなる。

こうした感受性のベースには、プラトニスム的な思考がある。
古代ギリシアの哲学者プラトンは、現実ははかなく、束の間の存在に過ぎないと見なし、永遠に存在するものを求めた。そして、永遠のある場をイデアと呼んだ。理想の世界であり、時間は流れず、永遠に不変の世界。
そのイデアへと向かう動きがエロースであり、愛ということになる。

ヴァンタドゥールの歌う雲雀は、まさにプラトン的エロースの象徴であり、地上的な現実から遠く離れ、天上へと羽ばたいていく。

Vincent van Gogh, Champ de blé avec une alouette

上昇する雲雀の姿が、現実からイデア界へと飛翔する感情の具現化であるとすると、それは抽象的な思考の象徴である。とすれば、飛翔する勢いが詩にとって重要であり、具体的な雲雀の現実性は問題とされない。
その点が、日本的な感性とは大きく異なっている。

雲雀 万葉集の和歌とトゥルバドゥールの詩を通してみる日仏の美的感性」への2件のフィードバック

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中