オルフェウスとイザナキ 妻を求めて地獄に下る二人の夫

葦原の中つ国 日本

西欧世界では、現実と超現実(天国、地獄)などの次元には明確な差がある。その中で、視覚と聴覚の違いが禁止の核として用いられていると考えることができる。その次元の違いは絶対的なものであり、例外的な人間だけが地獄から戻ることができる。
その代表的な人物が、オルフェウスである。

彼が地上に帰還後もエウリディーチェを思い続けることは、現実を超えた次元が常に意識の中にあり、超越的世界への憧れを持ち続けることを意味している。

それに対して、日本の伝統的な意識は一元的な世界観に立脚していると考えてもいいだろう。

暗い闇の中にいる姿を見ないという約束に違反するイザナキのエピソードは、日本の民話「ツルの恩返し」やフランスの伝説「メリュジーヌ」、ローマ神話のプシケーの物語を思わせる。
しかし、見るものはまったく違っているし、その後の主人公の行動も違う。

イザナキが見たものは、ウジ虫がたかり、8つの雷がごろごろと鳴っているイザナミの身体。彼はその姿を見て恐れおののき、大急ぎで逃げ出す。
イザナミの方は、「私によくも恥をかかせた」と怒り、黄泉の国の醜女たちに夫を追わせる。そして最後は自分でも夫を追いかけ始める。
それは愛のためではない。「私によくも恥をかかせた」と怒り狂い、その恥をそそぐためである。

イザナキ・イザナミ神話の特色は、妻の身体がウジ虫で覆われていること、妻が消えるのではなく夫が恐れて逃げ出すこと、そして、「恥」に言及されることである。日本文化の伝統の最初に恥の意識が存在していることは、興味深い。

最後、イザナキは、妻に追いつかれそうになり、黄泉比良坂(よみひらさか)に巨大な千引(ちびき)の岩を置く。そこで夫婦は別離の言葉を交わす。
イザナミ、「私はあなたの国の人々を、一日に千人絞め殺す。」
イザナキ、「私は一日に一千五百人の産屋を建てる。」
このようにして、死と生の区別が二人の口から語られることで、黄泉の国がこの世から完全に隔てられることになる。

イザナキ逃走のエピソードの中でとりわけ重要なことは、植物や果実の誕生神話であるという点である。
黄泉の国の醜女たちに追われたイザナキは、まず髪に挿した黒いかずらを取って、投げつける。するとそこに山ぶどうの実がなる。次に、右のかずらに挿している櫛を投げ捨てると、タケノコが生えてくる。
現世と黄泉の国の境にある黄泉比良坂のふもとで、大勢の軍勢に追いつかれそうになった時には、桃の実を3つ投げつけて、軍勢を退散させる。そして、桃の実に感謝して、これからは葦原(あしはら)の中国(なかつくに)に生きている青人草(あおひとくさ)、つまり人間がつらい目に遭うときには助けてあげてくれ。」と言い、桃にオホカムズミノ命という神名を与える。

ここでは、山ブドウ、タケノコ、桃が産まれ、人間が草と同一視される。
思い起こせば、逃走の最初は、イザナミの身体がウジ虫に覆われているところから始まっており、高温多湿な環境が前提となっている。
さらに、天地の始まりのの時、国土は水に浮く脂のようで、葦原を思わせた。
こうした全てが暗示するのは、国土も植物も人間も、同一の起源である水から成り立っているということである。
死者の国でさえ生者の国とは隣合わせで、隣人の家のように感じられる。
そこに超越的な存在はなく、全てが葦のように萌え出てくる存在。

イザナキとイザナミが激しいやり取りを交わし、二つの世界を区切る巨大な岩を坂に置くのは、そうしなければならないほど、二つの世界が近いことの反証に他ならない。イザナミに愛を保ち続けたりしたら、彼女はいつでもこの世にやってくる。
天も地も海も全ては一元的につながっている世界。それが日本的世界観といえる。そして、その根本には水がある。

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