ルソーの夢想 自然との一体化 Jean-Jacques Rousseau et ses rêveries

五感が固定され、内面の動きがとまった後、何が起こるのだろうか。

Le flux et reflux de cette eau, / son bruit continu / mais renflé par intervalles / frappant sans relâche mon oreille et mes yeux /, suppléaient aux mouvements internes / que la rêverie éteignait en moi / et suffisaient / pour me faire sentir avec plaisir mon existence / sans prendre la peine de penser. 

波の動きのような文が続き、読者を夢想に誘いながら、外の世界と内面が一つになる様子が語られる。

音節の数は、8 / 5 / 7 / 12 / 9 / 10 / 10 / 13 / 9 。
湖の波が長くなったり、短くなったりしながら、岸に打ち寄せているリズムを感じる。とりわけ、最も重要な表現であるmon existence (私が存在するという感覚)を含む後半部分の音節は長く、波に呑み込まれるような印象を生み出している。

こうした長い文ではあるが、主語と動詞の枠組みは明確である。
a. Le flux et le reflux, son bruit […] suppléaient aux mouvements […] / et suffisaient […]
波の満ち引きとその音/代わりになる/動き/そして、十分。
この構文が理解できれば、水の動きが内面の動きの代わりになったという、中心的なテーマを理解することができる。

その上で、名詞と動詞に、様々な仕方で説明が加えられている。

主語の一部であるson bruit(水の音)には、三つの仕方で付加的な説明がされている。
a. 形容詞、continu (継続する)
b. 過去分詞、renflé par intervalles (時々大きくなる)
c. 現在分詞、frappant sans relâche mon oreille et mes yeux (絶え間なく私の耳と目を打ちつける)

les mouvementsには、二つの説明が付く。
a. 形容詞、intérieurs (内部の、心の中の)
b. 関係代名詞 que la rêverie éteignait en moi (その動きを夢想が私の中で消し去った)

suffisaientには、前置詞+動詞の原形(名詞)で、二つの付加的な要素が加えられる。
a. pour me faire sentir avec plaisir mon existence (自分の存在を感じることができ、喜びを味わう。)
b. sans prendre la peine de penser. (わざわざ何かを考えるということはない。)

内面の動きが固定化した後、外部の水の動きと音が内面の動きを補うと感じる。それはまさに、自己と外部の世界の一体化である。
スイスの小さな湖の畔に座り夢想にふけっているルソーは、いつの間にか自己意識を失い、水の音が自分の心臓の鼓動であるように感じる。
こうした体験は、小川のせせらぎの音を耳に、目を閉じて聞き入っているときに感じる、私たち自身の体験であるともいえる。私たちは小川の音に包まれ、世界と自分が一つになることを感じる。我を忘れ、時間を忘れる幸福な状態。

私たち日本人は、自己と自然の一体化を感じるとき、自分という存在が世界の中に溶け込み、無になったように感じる。他方、ルソーは、自分の存在感覚(mon existance)を感じたと記す。

「存在感覚」について、ルソーは次のように記している。

しかし、魂が十分強固な基盤を見いだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなければ、未来に想像をめぐらす必要もないような状態、時間が魂にとってなんの意味もないような状態、いつまでも現在が続いていくが、しかもその接続を感じさせず、連続しているという痕跡もとどめず、欠乏も所有も、快楽も苦痛も、欲求も恐怖も、どんな感情もなく、ただ自分が存在するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができるような状態、もしこういう状態があれば、それが続く限り、そのなかにいる人は、幸福なひとと呼ぶことができよう。それは人生のさまざまな楽しみのうちに見いだされるような、不完全で、みじめで、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福であって、もはや魂のうちには、埋めなければならないどんな空洞も残されていないのである。
(中川久定『自伝の文学』岩波新書、1974年、pp. 73-74。)

我を忘れている時には、時間の意識も消え去っている。時間が存在しないということは、今が永遠に続いているということ。そこで中川久定は、その状態を「永遠の現在」と呼ぶ。

哲学では、時間が流れる現実に対して、時間のない永遠はイデア界を意味する。
その視点からは、ルソーは、イデアを自己と自然の一体化の状態の中に見出したと考えることもできる。

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