幽玄の美へ 鎌倉リアリスムから北山文化、東山文化へ

北山文化から東山文化へ

禅宗の影響は、直接的には仏教寺院の建造物や庭園に及んだが、間接的には水墨画、能狂言、連歌、茶道等の発展にも関係したと考えられる。

足利義満の造営した北山の鹿苑寺を中心に発達した文化を、北山文化と呼ぶ。その美を象徴するのが、1394年に造営された金閣寺。


それから約70年を経た1467年に起こった応仁の乱は、戦国時代の幕開けとなる。その時代、足利義政が造営した東山山荘(銀閣寺、1489年)は、その耽美的な姿によって、東山文化の代表となった。

北山文化の代表的な画家は、吉山明兆(きつさん みんちょう 1351ー1431)である。彼は国産の唐絵を発展させた。

吉山明兆、白衣観音図
吉山明兆、渓陰小築図

同じ時期、詩画軸も流行した。
詩画軸とは、上部に詩が漢字で書かれ、下部に絵が描かれた掛軸のこと。そこに描かれた絵画は、唐絵そのものである。

伝周文、竹斎読書図
如拙、瓢鯰図

東山文化の時代には、雪舟(せっしゅう、1402ー1506?)が登場する。

雪舟、秋冬山水図のうち秋景
伝雪舟、四季花鳥図

室町時代の後半には、大和絵と唐絵が統合され、続く桃山時代の美につながる動きが胎動し始める。

伝能阿弥 三保松原図
狩野元信 四季花鳥図

絵画だけではなく、演劇でも刷新が行われ、猿楽が能と狂言へと発展した。
能は、歌舞を主とする一種の歌劇。狂言は対話を主とする笑劇。

能は世阿弥によって完成された。
父の観阿弥の劇が現世的な人間劇だったとすると、世阿弥は登場人物に超自然な存在を入れ、この世とあの世の境目に劇を置く。主人公は多くの場合人間から亡霊へと変身し、此岸から彼岸へと移行する。可視の世界と不可視の世界が容易につながり、簡素な舞台の上に幽玄な世界が出現する。

そうした能の表現は極度に抑制され、心理的な陰影に富んだ余情の美を生み出す。その際に欠かせないのが、能面である。

黒式尉
姥(うば)

彫刻作品としての能面は、宋風彫刻の和洋化されたものといえると同時に、世阿弥の夢幻能と呼応し、幽玄な美を表現している。

北山文化、東山文化に代表される室町時代を通して、様々なジャンルの美の表現の中に、抑制され、シンプルで、そのために深みのある、日本的な美が形成された。そこに禅の精神を読み取ったとしても、間違ってはいないだろう。

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