ネルヴァルの名刺(表面) 「エル・デスディチャド(不幸者)」  Gérard de Nerval « El Desdichado »

私は誰? 謎かけ遊び

Suis-je Amour ou Phébus ?… Lusignan ou Biron ?
Mon front est rouge encor du baiser de la reine ;
J’ai rêvé dans la grotte où nage la syrène…

私はアムール、フェビュス?。。。 リュジニャン、ビロン?
私の額は、女王の口づけで、今でも赤いまま。
私は洞窟で夢を見たことがある。あの人魚の泳ぐ洞窟で。

詩の最初に「私は暗い人間」と始め、8行の詩句を使って、自分をメランコリックなロマン主義詩人として紹介してきた。それが九行目に至り、「私は誰?」とでもいうように、疑問文(Suis-je)に変わる。

この詩を書いた1853年秋、ネルヴァルは精神に異状をきたし、精神病院に入院していた。そこで、第9詩行は、狂気の印と理解されることがあった。あるいは、この詩全体を自己認識、アイデンティティーの揺らぎの表現と見なすこともある。

しかし、「エル デスディチャド」を名刺の表側に書かれた詩と考えると、「私」は4人の人物のうちの誰なのかという問いかけは、ユーモアに富んだ謎かけ遊びと捉えることも可能である。

そのようにして、ロマン主義詩人という肩書きを作り直し、より自分に相応しい詩人像を提示したのだと考えてみたい。ネルヴァルは自己韜晦を愛する、皮肉とユーモアの詩人なのだ。

ここで言及される四人の人物が誰なのかに関しては、様々な説が提示されてきた。しかし、まだ完全に解明されたとはいえないし、ネルヴァルが本当に何を考えていたのか知ることはできないだろう。

最初の読者であるアレクサンドル・デュマは、新聞「銃士」にこの詩を掲載した際、ビロンの綴り字を« Biron »ではなく、« Byron »とした。IをYに変えたことは、彼がこの固有名詞をイギリスの詩人バイロンと理解したことを示している。
他方、Iのままだと、フランスの16世紀の軍人の名前を指したり、19世紀の芝居の登場人物を指したりもする。また、ネルヴァルの時代には、バイロンもIの綴り字で書かれることがあったという。

こうしたことは、ビロンが誰なのか、デュマでさえもネルヴァルの考えた人物とは違って考えたかもしれないということである。
あるいは、皮肉屋のネルヴァルのことだから、あえて誰か特定できないように、あいまいなままにしておいたのかもしれない。そうすることで謎かけの楽しみが大きくなる。

最初に提示されたアムールは、愛の神キュッピット。

フェビュスは普通はアポロンの別名と考えられるが、フォワ伯ガストン・フェビュス3世を指すという説、ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に出てくるフェビュス説もある。

リュジニャンは、異類婚姻譚の女主人公メリュジーヌの夫ポワトゥー伯レイモンが属するリュジニャン一族の名前。

こうした名前が正確に誰を指すのか、特定することはできないし、不毛の提案を重ねるだけになりかねない。ここでは、誰であるのかというよりも、問いそのものが意味を持つと考えた方がいい。

第10詩行からは、再び自分の状態や過去の行為へと戻る。

まず、今の私。女王から口づけされた赤い印が、今でも額に残っている。
ここで、第一カトランとは違う状況が示されていることは重要である。最初の認識では、現在は喪失の時であり、全てが失われた状態にあった。唯一の星(恋人)は死に、詩人の紋章はメランコリアの黒い太陽だった。
それに対して、私は誰でしょうという謎かけの後になると、額がまだ赤い(rouge encor)と言われる。過去の幸福の跡が今でも残っている。現在は喪失の時ではなく、過去を含み込んだ時になる。

過去の出来事として、洞窟の中で夢見たことも付け加えられる。
その洞窟の中では人魚が泳いでいる。

ここで、泳ぐという動詞が、現在形に置かれていることに注目しなければならない。夢見た(j’ai rêvé)が複合過去形で語られ、既に完了した過去の出来事として位置づけられている。その時、洞窟の中で人魚が泳ぐのも過去の出来事のはずで、時制の一致を考えれば半過去形(la syrène nageait)が使われるのが普通である。それにもかかわらず現在形が使われているとしたら、それは時間軸の中に位置づけられない出来事である「普遍的な現在」、言い方を変えると「永遠の現在」であるといえる。詩人が夢見た洞窟は、永遠(イデア)の世界なのだ。

「永遠の現在」は、第2カトランの最後に呼び出されたブドウ棚でも示されていた。そこでは、ブドウの枝とバラとの結びつきが現在形(s’allie)で描かれていた。その意味で、第8行詩句は、カトランからテルセへの移行を準備しているのである。

ロマン主義の本質は、不在の理想をメランコリックに渇望するところから生まれる叙情性にある。ネルヴァルは喪失の現在と理想の過去との関係を再構築し、現在が不在の時でありながら、しかしその不在を潜在的に含む、生の時間として提示しなおしたと考えてもいいだろう。
過去も含む現在。それは、今でありながら、永遠でもある。

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