ランボー「母音」 Rimbaud, « Voyelles » ボードレールを超えて  Au-delà de Baudelaire

2.Oは青。

二番目の3行詩では、Oと青が結びつけられるはずなのだが、青は出て来ない。第一行の予告、« O bleu »がここで裏切られてしまうのだ。その一方で、紫(violet)に言及される。

私の読みとして、そこにランボーの遊びの精神があるという仮説を提出してみたい。終わりが始まりであるという、生の運動の戯れを暗示するという仮説。

この3行詩は明らかに、「ヨハネによる黙示録」を下敷きにしてる。
ラッパの音が響き、天使が飛び交い、最後の言葉オメガが発せられるのが、その証である。

 « Voyelles »の最初の言葉は« A »だった。そして、最後の行では« O »が置かれ、その後、オメガという言葉が並置される。
そのようにして、14行のソネットの時空間が、アルファとオメガの中に収められている。

「ヨハネの黙示録」の1章8節にはこうある。
「神はおっしゃった。私はアルファでありオメガである。最初であり最後である。いま存在し、かつて存在し、やがて来るべき者。全能の者。」
オメガという言葉を詩の中に書き込むことで、ランボーは黙示録のこの言葉を思い起こさせようとしたのだ。

詩の最後を告げるため、詩人はラッパの音を響かせる。
その際、ラッパに「他を超越した、最後の」(suprême)という形容を施す。しかも、« Suprême Clairon »は最初の文字が大文字になり、あたかも固有名詞のように、つまり他に変わるものがない単一の存在として出現する。

「ヨハネによる黙示録」の中では、ラッパが天使によって7回吹かれる。
第一の天使のラッパが鳴ると、血の混じった雹と血が地上に降り注ぐ。そのようにして、6番目のラッパまで、地上は破壊され続ける。
しかし、第7のラッパは、地上が神の国になることを予告する。
「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」(11章15節。)
そして、22章13節では、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」という言葉が、再び発せされる。

詩の最後の言葉は、「彼のまなざし」だが、« Ses Yeux »と語の最初は大文字になっている。
ここでも大文字は普通名詞を固有名詞にし、このまなざしとは、神という唯一の存在の眼差しであることを示している。
そこで、紫の光線(rayon violet)は、神の目の光線なのだ。

では、なぜ青ではなく、紫なのか? 

ランボーは、オメガに言及した時点で、終わりを強く意識していた。
虹の7色の考えるとき、一番外の光線が赤で、一番内側の光線は紫と見なされる。つまり、虹の光線の段階的変化では、光の色は赤で始まり紫で終わる。
ランボーは、神の目の光線の色を、虹のスペクトルに従って紫にしたのではないだろうか。

さらに、黙示録の神は、自らをアルファでありオメガであると言う。
アルファとオメガは、対立し排除し合うのではなく、両立する。「あるいは(ou)」ではなく、「と(et)」の関係。
「母音」の« O »も、ラッパの音であり、沈黙でもある。音と無音を同時に体言する。

また、ラッパを意味する« Clairon »には、クリアーな(clair)という音が含まれるが、他方で、突き刺さるような不快で奇妙な音(des strideurs étranges)に満ちてもいる。ラッパの音にも、二つの対立する要素が両立している。

沈黙も、数々の世界と天使たちが横切るため、決して無音ではない。
とりわけ、天使は黙示録ではラッパを吹く役割を果たしている。
また、世界も、« des Mondes »と大文字が使われ、固有名詞化されていると同時に、音の面では、« dé-mon »(悪魔)を連想させる。

このようにして、対立するものの一致(coincidentia oppositorum)が行われていることがわかる。
現実の次元では対立、区別されるものが、無限なる神の次元では解消され、根源的な一である。

 紫(violet)には、V(U)=緑、I=赤、O=青、E=白が含まれる。そこにないのは、Aだけ。そのAは、詩の冒頭にある。
そこで、全ての色を統合するために、最初に戻ることになります。最後が最初に戻り、循環の輪が出来上がる。
ランボーは、O=青という予告を裏切り、スペクトルの紫によってオメガの最終性をより強調し、さらには、« violet »に欠けている« A »を補充するため、詩の最初の一語、« A »へと回帰する仕組みを作り上げたのである。

以上のように詩句を読み説いていくと、「母音」の最後の6行は、錬金術の詩だということがわかってくる。それが生み出すものは、最初であり最後である根源的な一者。その形は円環。
« U »では« cycles »と複数形だったが、« O »は円形そのものによって示される。対立するように見えるものも、その対立ゆえに動き、調和へと向かう。対立がなければ不動であり、何も生まれない。
「ヨハネ黙示録」第21章6節にこうある。
「私はアルファでありオメガである。初めであり終りである。渇いている者には、無償で、命の水(eau vive)の泉から飲ませるだろう。」

16歳の詩人ランボーは、言葉遊びをしながら、黄金の詩句を精錬する錬金術を発案し、母音と色彩の組み合わせを試してみたのではないか。
その結果出来上がった「母音」という詩は、多くの読者にとって命の水(eau vive)となり、詩的な渇望をもたらすと同時に、渇きを癒してもくれる。

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