日本語の主観性

臨場感

日本語では、主語を言わないで済ますことも多く、文の中に発信者の存在を書き込まない傾向にある。
しかし、発話主体は言葉によって明記されないだけで、常に発話や文に内在化し、主観性を付与している。言い換えると、客観的な記述と見える言葉にも「私の思い」が反映している。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

これは、日本語と英語を比較し、主語の存在・不在を論じるときにしばしば登場する川端康成の『雪国』の冒頭の文である。

英語にする場合、主語なしで済ますことはできない。

The train came out of the long tunnel into the snow country.

The trainを主語にした英語の文は、汽車がトンネルから出てくる客観的な状況を描写している。
しかし、日本語の文はそうではない。
ここで重要なことは、同じ状況を描いているように見える日本語文と英文との間に、決定的な違いがあることである。

英語文の著者は、この状況をソトから眺めている。決して、描かれている場面に身を置いてはいない。語り手は「見る主体」であり、汽車がトンネルから出る場面は「見られる客体」である。主体と客体が一致することはありえない。

読者も著者と同じように場面から距離を置き、the trainを眺めている。その意味では、「見る主体」と「見られる客体」の区別は、読者の側でも保たれている。

では、日本語文ではどうだろう。

主語が明示されていないために、トンネルを抜けたのが汽車でありながら、その汽車に乗る主人公であるようにも思われる。
主人公は暗いトンネルの中に長くいて、ようやく明るい場所に出る。と、真っ白い雪に覆われた美しい景色が目に入る。
その印象が、川端の日本語からは生き生きと感じられる。
日本語の文では、情景の描写であるとともに、情景の印象が伝わってくるのである。

では、誰の印象なのか。
最初に考えられるのは、文の中の主人公の印象。それと同時に、著者の思いでもある。さらに、読者もその思いを感じ、共有するかもしれない。

池上嘉彦は、その状態を臨場感覚という言葉で説明する。
語り手は心の中で、言語化している状況をソトから見るのと同時に、その状況の中にも身を置き、主人公と一体化する。
読者も列車の中に身を置いている。
そこでは、「見る」と「見られる状況」という対立が弱まり、体験的な臨場感覚が発生している。

その臨場感は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という文に、主語が明示されていないところから生まれる感覚だろう。
わかり切ったことは言わない日本語の特質を活かし、作者は密かに文の中に自分の主観性を印象付ける。読者に対しても、省略された要素の復元の責任を負わせ、何も描かれていないはずの印象を共有させることができる。
『雪国』の冒頭は、そうした日本語の効果を最大限に活かしているといえる。

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