日本語の主観性

主観性

ここでも池上に従い、表示がされないことで、文に作者の主観性が付与される例を見ていこう。

ヴァネッサがテーブルの(私の)向かい側に座っている。

(1) Vanessa is sitting across the table from me.

(2) Vanessa is sitting across the table.

二つの文の違いは、from meがあるかないかだけ。
では、from meという表示がされる場合とされない場合で、何か違うのだろう。

(1)のように« from me »と明示される場合、発話者が受信者に対して、それを言わなければ理解されない、と考えているからである。
もしヴァネッサと実際に向かい合っている状況にいるならば、(2)のように、私がどこにいるか言わなくてもいいはずである。

従って、« from me »という表示は、「発話主体の私」が「発話内容の私」の属する状況のソトにいることを示す。

(2)の場合、私が座るテーブルの反対側にヴァネッサが座って、その状況を対話の相手に伝えている。つまり、文に表示されないことで、逆に、話者がそこにいることが明らかになるのである。
池上嘉彦によれば、こうした言語のあり方が、「主観化」「主観的把握」と呼ばれるという。

文が存在する限り、必ず発話者がいる。その発話者が、文の中の語り手として「私」という表示を行うと、その「私」は発話者が文の内容のソトにいることを示すことになる。
その場合、文で描かれる状況は、発話者によってソトから見られ、客観的な状況の描写となる。

それに対して、「私」が明示されないと、話者はその状況の場にいて、発話していることになる。そこにあるのは私の目に映る状況であり、主観的に把握された現場である。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という文の臨場感も、そうした言語のあり方から生まれる。「汽車」とか「私」が表示されないことで、作者の主観性が感じられるのである。

このように、省略が多い日本語では、発話された文に発話者の存在が強く反映される。また、受信者は復元の責任を負わされているため、発信者と同じ地平に身を置くことになる。
この状況も、ウチの言語である日本語の一つの特色である。

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