マラルメ 「蒼穹」 Mallarmé « L’Azur » 初期マラルメの詩法

第2詩節になると、マラルメ自身の姿勢が示される。それは、「蒼穹」からの「逃走」。

Fuyant, les yeux fermés, je le sens qui regarde
Avec l’intensité d’un remords atterrant,
Mon âme vide. Où fuir? Et quelle nuit hagarde
Jeter, lambeaux, jeter sur ce mépris navrant?

目を閉じて逃走する私は、あれを感じている。あれは見ている。
人を打ちのめす、激しい後悔の念とともに、
私の空虚な魂を見ている。どこに逃げるのか。取り乱したどんな夜を、
投げるのか、切れ切れにして、この悲痛な軽蔑の上に。

ボードレールは「無限」に挑む戦いを前にして、憧れを隠しはしない。その憧れ、つまり、美へ向かう熱望こそが、美そのものなのだ。

それに対して、マラルメは、逃走する。目を閉じて、逃げる。
そして、「蒼穹」の眼差しをくらますために、夜の断片を投げつける。
詩人の魂が虚無であり、蒼穹がその魂を見ているという認識。その認識に基づき、詩人は、蒼穹から身を隠すため、闇の中に身を隠そうとする。マラルメの詩の基本的な姿勢、「逃走」がこのようにして示される。

van Gogh, La Nuit étoilée

ところで、マラルメの詩句の難解さの一つは、フランス語の文の構造が解体されていることから来ている。主語、動詞、目的補語や状況補語などの組み立てが意図的に乱され、通常の理解ができない。

第2詩節の場合、je le sens (l’Azur) qui regarde mon âme. (私は蒼穹が魂を見ているのを感じる)という文の構造は明確である。

それに対して、後悔の念(avec … remords)に関しては、曖昧さが残る。
一般的な構文理解によれば、その後悔は、蒼穹が私の魂を見る(regarde)ときの状況である。しかし、蒼穹がなぜ激しい後悔をする必要があるのか。後悔するとしたら、「私」ではないのか。
実際、後悔が打ちのめす(atterrant)のは「私」である。そうであるとしたら、「私」が蒼穹を感じる時に抱く後悔ではないのか。
従って、« avec l’intensité d’un remords »は、je le sensの状況を表していると考えるほうが相応しい。

構文上のもう一つの問題は、最後の詩行に出てくる「断片」(lambeaux)。名詞のまま動詞の後に無冠詞で置かれ、非文法的である。
しかし、動詞(投げる)と目的補語(夜)との関係を考えると、夜を断片にして投げるのだろうと推測できる。
そして、理解が困難なことで「断片」という単語にスポットが当たり、「取り乱した夜(nuit hagarde)」の一つ一つの断片がどんなものか、興味が湧くことことになる。

「蒼穹」は「私」を軽蔑し(mépris)、私の胸を抉る(navrer)。その原因は、私の魂が空虚(vide)でありながら、「蒼穹」を求め、同時に「蒼穹」から逃れようとするからだろう。
その時、私はどこに逃れていいのかわからない。そこで、夜の闇を投げかける。その夜に対応するものが、第3詩節から第5詩節にかけて、3つの姿で描き出されていく。

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