ネルヴァル 「黄金詩篇」  ピタゴラスと共に Nerval, « Vers dorés », avec Pythagore

Souvent dans l’être obscur habite un Dieu caché ;
Et comme un œil naissant couvert par ses paupières,
Un pur esprit s’accroît sous l’écorce des pierres !

しばしば、ちっぽけな存在の中に、隠れた神が住んでいる。
まぶたで覆われていた目が、今まさに生まれ出ようとしているように、
一つの純粋な精神が、石の表皮の下で、大きくなろうとしている。

ここで神(Dieu)という単語の最初を大文字にしていることは、ネルヴァルがキリスト教の神を読者に連想させようとしたことを示している。
パスカルに従えば、失楽園によって象徴される堕落以来、人間が神を見ることはできない。言い換えれば、神は隠されている。もし人間が神を見ることができるとしたら、それは神の恩寵によるしかない。

そうしたキリスト教的な伝統を踏まえた上で、愛の神秘を感じ、教えの真理として提示する。
ネルヴァルは、些細なものにまで目に見えない磁力を感じ、神が住む「気配」を実感しているのだろう。そこには生命の営みがある。

Odilon Redon, Eye-balloon

生まれようとする(naissant)目は、生命の力の具体的なイメージである。

それは、光あれという言葉(verbe)であり、ゲーテであれば、動きの源泉と考えるものだろう。

目に見えず、気配を感じるしかない。が、確かにある。

ネルヴァルはその気配を、「石の表皮」という表現を使うことで、読者に伝えようとする。表皮(écorce)は植物の表面であり、鉱物の表面ではない。
ここでは、矛盾した言葉を重ねるオクシモロンによって、石に植物的な生命を付与するのである。その言葉によって、石は柔らかくなり、水分を含み、生きているように感じられる。

ピタゴラス派は、魂を肉体に閉じ込められた神的な存在と考えた。そして、肉体が死ぬと次の肉体に移る前に、一旦黄泉の国に行き、清められるという思想があった。そのために、地上でも、清浄な生活を送ることに努めたという。
純粋な精神とは、ピタゴラス派のそうした側面と対応していると考えられる。

動物の中で動く精神を敬うようにとすでに命じたが、そうした精神が鉱物にまで行き渡っている。しかも、その精神は浄化されている。

ネルヴァルの「黄金詩篇」は、ピタゴラスの後を継ぎ、19世紀のパンテイスム(汎神論)に基づきながら、全てのものに生命が宿り、純粋な精神が成長していることを定式化している。

イメージに富み、音楽的な詩句は、そうしたお説教を、心地よく読者の心に届けて続けている。

私たち、日本的な感性を持つ者には、西欧の読者よりも、ずっとわかりやすい詩だといってもいいだろう。

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