ランボー 「アマランサスの花の列」 Rimbaud « Plates-bandes d’amarantes… » 疾走する想像力と言葉の錬金術

Banc vert où chante au paradis d’orage
Sur la guitare, la blanche Irlandaise.
Puis de la salle à manger guyanaise,
Bavardage des enfants et des cages.

緑のベンチ。嵐の楽園で、
ギターの伴奏に合わせ、アイルランドの白い娘が歌っている。
次に、ギアナの台所から聞こえる、
子どもたちと籠たちのおしゃべり。

そこで実際に見えたり、聞こえたりしている可能性のあるのは、娘の歌。もしかすると、ギターの伴奏があったのかもしれない。
それから、子どもたちの声や籠の中の鳥たちの鳴き声。

他方で、アイルランドやギアナがなぜ出てきたのか、わからない。現実に一人の娘がベンチで歌を歌っているにしても、国籍などはわからない。
台所のギアナにしても同様である。
ここでランボーが何をイメージしていたのか、限定する要素があまりにも少なすぎる。例えば、当時の資料を調べて、レジャン大通りの21番地には少女たちが入る寄宿舎があったことを突き止めたとしても、詩句の理解にはまったく繋がらない。
ランボーが何を本当に目にしていて、どこからが想像力の産物なのか、境界線を引くことはできない。

詩句の勢い、リズム、音楽性を感じていくのが、詩人の言葉をたどるための最良の方向となる。

この詩節で、一カ所、従来の詩的言語の用法を少年詩人が使っている場所がある。
「嵐の楽園」
二つの矛盾する要素を結合させるオクシモロン的表現だ。
歌っている女性のおかげで辺りが楽園のような幸福感に包まれているのか、あるいは彼女自身が幸せな気分を味わっているのか。嵐は楽園の雰囲気を壊すものではなく、高める役割を果たしている。

Fenêtre du duc qui fais que je pense
Au poison des escargots et du buis
Qui dort ici-bas au soleil. Et puis
C’est trop beau ! trop ! Gardons notre silence.

公爵の窓。それを見てぼくが考えるのは、
カタツムリとツゲの毒。
ツゲは、下の方で、日に照らされている。
それから次は、
とにかくキレイすぎる。キレイすぎる。ぼくたちは黙っていよう。

今度は、立派な屋敷の窓が目に入る。その下の方にはツゲがあるのかもしれない。
その窓を見ながら、少年詩人は、毒を思う。カタツムリにも、ツゲにも、毒はない。だから、毒は彼の想像力の中の存在。

最後に「ぼくたち」の沈黙とあり、彼が一人ではないことが明かされる。伝記的事実からすると、一緒にいるのはヴェルレーヌ。

二人は、通りを見て、空想にふけり、目に入るもの全てに美を見出す。
「キレイすぎる!」という感嘆は、二人の共通の気持ちだろう。
ヴェルレーヌも、ブリュッセルを歌った詩の中で、美を見出し、回転木馬の上で頭がクラクラするほど、幸福を感じている。

ランボーが想像する毒は、死をもたらすものというよりも、人工楽園に導くハッシッシやアヘンと考えてもいいだろう。
それを飲むと、通りがキレイすぎ、何も言わずに見とれていたくなる。

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