ランボー 「アマランサスの花の列」 Rimbaud « Plates-bandes d’amarantes… » 疾走する想像力と言葉の錬金術

− Boulevard sans mouvement ni commerce,
Muet, tout drame et toute comédie,
Réunion des scènes infinie,
Je te connais et t’admire en silence.

ー 何も動かず、人通りも途絶えた、大通り。
音もしない。あらゆるドラマとあらゆるコメディー、
いろいろな情景が、限りなく集まっている。
ぼくはお前を知っている。お前に見とれている。静かに。

最後に、ランボーはレジェン大通りから生命観を抜き去る。本当に人通りが途絶え、馬車の音もせず、鳥たちの声も聞こえず、風が物音を立てることもなく、静まりかえっていたのかどうか、それはわからない。
現実を前にして、疾走する想像力は、様々な情景を生みだしていく。その数は「無限(infini)」。留まるところを知らない。

そうしていると、隣にいるであろうヴェルレーヌのことも忘れ、無言で空想に浸ることになる。静かに、通りの前にいる。
ヴェルレーヌには、それはただの通りに留まっているかもしれない。あるいは、彼のランボーの同伴者として、別の空想にふけっているかもしれない。

ランボーが賞賛するのは、現実の大通りの街並みが素晴らしいというだけではない。その大通りが想像力をかき立て、次から次へと情景が浮かぶ。そのようにして、現実が空想と混ざり合い、無限に広がる。ランボーにはその全てが見える。だからこそ、「キレイすぎる」と感じ、沈黙して見とれる。

ランボーは、見えるものと、そこから出発して想像力が現前させるものを区別しない。それら全てが同じように見えているのだろう。彼は自分を幻視者(voyant)だと言う理由は、そこにある。

ランボーという幻視者にとって、現実を模倣し、再現するという芸術観は、全く意味を持たなくなっている。その意味で、彼の詩は、非再現性の芸術に属するということができる。
言葉が描き出すものが実際に存在するのかしないのか、問題ではない。言葉はそれだけで成り立ち、自立した世界を生み出す。

それが「言葉の錬金術」に他ならない。ランボーの詩を形成する言葉から、黄金が生まれる。
その黄金が、『地獄の季節』や『イリュミナシオン』に集められた詩の言葉だ。

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