ヴェルレーヌ 「忘れられたアリエッタ その1」  Verlaine « Ariettes oubliées I » 日本的感性とヴェルレーヌの詩心

第一詩節では、ヴェルレーヌの詩の原初的な状態が、生のまま表現される。

C’est l’extase langoureuse,
C’est la fatigue amoureuse,
C’est tous les frissons des bois
Parmi l’étreinte des brises,
C’est, vers les ramures grises,
Le choeur des petites voix.

それは、物憂い恍惚感。
それは、愛の倦怠感。
それは、森の全ての震え、
そよ風の抱擁に間を抜ける。
それは、灰色の梢に向かう
小さな声の合唱。

youtubeにはドビュシーが曲を付けた歌しかアップされていない。ここでは、バーバラ・ヘンドリックスの歌を聞いてみよう。

6行のうち4行は、「それは(C’est)」で始まる。
冒頭の語句の反復(アナフォール)がこれほど繰り返されるのは珍しいが、そのことで、一つのことが特徴的に示される。
ファヴァールの詩句でも触れたように、動作の主体となるものがあり、それが客体に対して働きかけることで、何かが生まれるのではない。能動的な動きがあるのではなく、すでにあるものがある。全ては最初からそこにある。

存在が動作主体よりも先にあると感じる感性は、対立に基づく西洋的なものとは異質である。そして、日本的だと言える。

『古事記』の冒頭での創造神話にそのことがよく現れている。

「天と地が初めて発した時、高天原に成った神の名は」

成るというのは、何かが神に成るのであって、無から出現するのでもなく、誰かが能動的に作り出すのでもない。自発的に、自然に出来てくるのが、「成る」である。
ここでは、主体と客体の分離はなく、ある物、ある運動(エネルギー)が形を取り、自ずから出来上がり、自発的に連続していく。
そこにあるのは、他動詞的な働きかけではなく、自動詞的な成り行きである。
https://bohemegalante.com/2019/02/26/genese-de-la-beaute-japonaise/5/

ヴェルレーヌの詩句でも、C’estの動詞はêtre(ある)であり、その後に続く4つの要素は、自然にできあがっているもの。

最初の2つの詩句では、まだ何もなく、感覚だけがある。
「物憂い恍惚感」と「愛の倦怠感」。
それぞれの最後に置かれた単語 langoureuse / amoureuseは、音的に ourueseが同じであり、非常に豊かな韻を形作っている。

また、extaseの[a]の音が、次の行ではla, fatigue, amoureuseの中で繰り返され(アソナンス)、音楽的なリズムを生み出している。

3行目のc’estの後ろの単語は複数形(frissons)であり、文法的にはce sontと複数形でないと、誤りと考えられるかもしれない。しかし、単数に置かれていることで、frissonsでなく、c’estに注意を引きつける効果がある。

3行目から6行目では、木、枝、そよ風という自然の事物に言及される。そして、ファヴァールの詩句と同様に、風の抱擁、梢の間の声という表現が、自然と人間の分離していない世界を示す。
風に吹かれて木々が震え、枝の音が声となり、歌が歌われる。

ヴェルレーヌの詩とは、こうした小さな声の合唱なのだ。

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