ヴェルレーヌ 「忘れられたアリエッタ その1」  Verlaine « Ariettes oubliées I » 日本的感性とヴェルレーヌの詩心

第3詩節では、自他が分離する始まりが描かれる。

Cette âme qui se lamente
En cette plainte dormante
C’est la nôtre, n’est-ce pas ?
La mienne, dis, et la tienne,
Dont s’exhale l’humble antienne
Par ce tiède soir, tout bas ?

この魂が嘆きの声を上げている、
まどろむ草原で。
それは、私たちの魂ではないだろうか?
私の魂? 君の魂?
慎ましやかな祈りが漏れ出している、
この生暖かい夕べ、ごく小さな声で。

第3詩節は、「この魂」から始まる。
第1詩節では、主体と客体の分離が行われていず、全てが一つの状態としてあった。C’estの状態。
「この魂」という言葉は、その状態から主体が分離し始め、魂を外から見、「この」と名指していることを暗に示している。

しかし、まだ完全に目覚めた状態ではなく、うつらうつらとまどろんだ状態。そこで、なぜかわからないが、嘆きの声を発する。
「巷に雨の降るごとく」で始める「忘れられたアリエッタ その3」の中では、自分の心は苦しんでいるが、その理由がわからないと歌われる。
それと同じように、なぜかわからない。理由がわからないからこそ、けだるく、物憂い悲しみはいつまでも続き、収まることがない。

悲しみは、どこから生まれるのか?
ヴェルレーヌは最初、「私たちの魂なのか」と言い、次に、「私の魂なのか、君の魂なのか」と自問する。こうして、「私」という存在が、原初の状態から分離し、「私たち」からも分割される。

最初に「私」が存在し、他に働きかけるのが西欧的な思考のあり方だとすると、ヴェルレーヌは非西欧的な魂の持ち主だということになる。
そのあり方は、自己が共同体から明確に分離しない状態を原点とする日本的なあり方と似ている。
小雨が降るとき、外の世界の客観的な状況としてではなく、心の内にも感じ、シトシトとオノマトペで表現する世界。
https://bohemegalante.com/2019/04/26/japonais-onomatopee/
ヴェルレーヌの詩心は、しっとりとしたウチの世界を歌にする。

彼は最後に自分の詩を、慎ましやかな祈りl’humble antienneと表現する。
慎ましいという形容詞は、華やかさではなく、ひっそりと佇む美を評価する日本的な感性を思わせる。
祈りの密やかな声や夕べの生暖かさも、はっきりとせず、おぼろげな雰囲気を愛する日本的な美意識と対応する。

西欧的な思考では、まず最初に主体と客体が個として存在し、主体が客体に働きかけることで、物事が生み出される。最初にあるのは、個の自立と対立の構図である。
それに対して、日本的な思考では、全てが渾然一体の状態で存在し、個の発生はその後から行われると考えられる。対立ではなく、和が根本としてある。

ヴェルレーヌ的感性は、対立ではなく和をベースにし、朗らかさよりもしっとり感を好む。とすれば、彼はフランスに生まれながら、なぜか日本的なセンスを持った詩人といえるだろう。

「忘れられたアリエッタ その1」は、「物憂い恍惚感」というヴェルレーヌの詩心の根本的な状態を最初に提示し、彼の詩が「慎ましやかな祈り」であると明かすことで終わる。この小さな詩の中で、詩の原理全体がささやかれているのである。耳をそばだてて詩の言葉に耳を傾けると、その息吹が感じられる。

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