フロベール『ボヴァリー夫人』 レアリスムを超えて

非主観的な語り

フロベールの最大の特色となるのは、非人称で、客観的で、即物的な語り口だと言われる。食卓の場面でも、そうした文の効果が最大限に発揮されている。

小説には作者がいて、その代理人とも言える語り手がいる。そして、描かれる小説の中の世界には、登場人物がいる。

バルザックの小説では、語り手が度々登場し、建物の様子を描写しながら歴史を語ったり、登場人物の心の内を細かく分析し、読者に全てを説明しようとする。

それに対して、フロベールの小説では、語り手が介入して、自分の意見を述べることはほとんどない。それぞれの場面は、登場人物の視線から見られている。
語り手の介入を読者に感じさせることなく、登場人物それぞれが独立して動く。どの場面からも語り手の主観が感じられない。語り手は客観的にその場を描く。そのために、非人称で、客観的で、即物的な語り口だと言われる。

食卓の場面は、最初にエンマの姿が見えてくる。そして、彼女の視線から見える光景が、1枚の絵画のように描き出される。
シャルルと向かい合った彼女は、話すこともなく、ストーブの煙を気にし、ドアがきしむ音を聞き、壁や土間を見る。
退屈して、食事をするでもなく、木の実を口にしたり、ナイフでテーブルクロスに線を書いたりして、時間つぶしをしている。

この場面で語り手は、エンマの内心を語り出し、彼女が退屈しているとは言わない。あくまでもその場の光景を描くだけという姿勢を保つ。
シャルルがゆっくりと食事をしているというのは、現実の時間ではなく、エンマの主観的な意識である。楽しければ、シャルルの食事が長いとは思わないだろう。
シャルルは普通に食事をしているだけで、エンマを苛立たせるようなことは何もしていない。しかし、彼女はシャルルが我慢できない。それを退屈とか、いらだちとか説明するのではなく、「シャルルは食事が長かった。」と、事実を事実として書く。

同様に、シャルルの内面に立ち入ることもなく、彼が妻の苛立ちをどのように感じているかを説明する文もない。シャルルはそこにいるだけ。そのことがエンマをますます苛立たせる。

しかし、語り手がまったく不在ということはない。
アウエルバッハは、語り手を通した作者の役割を、説明ではなく、選択にあるとしている。エンマはストーブやドアや壁を見る。食堂にある他の多くのものの中で、それらの物を選択したのは、エンマではなく、作者。また、エンマの仕草の中から、テーブルに肘をついたり、テーブルクロスを傷つける行為を選んだのも作者である。
語り手を通した作者の介入は、画家が描く対象を選択するのと同じように、何を描くかにかかっている。そしてその介入は、読者には感じられない。

アウエルバッハは、エンマにも言及し、彼女自身、こんな風に自分の不快の原因を数え上げることはできないだろうと考えている。
エンマが感じているのは、皿に盛られた料理に対して、「生きていることの苦々しさ、その全てが皿に盛られているようだった。」という、漠然としているが、不快感が頂点に達しそうな気持ち。彼女の魂からは、「どうしようもない味気なさのようなもの」が、蒸した肉の蒸気のように立ち上がる。

作者は、エンマが見るものの中から料理の皿や暖かい肉の蒸気を選択し、わずかなナレーションで、彼女自身では言葉にできなような気持ちを読者に伝えるのである。

こうした手法のおかげで、読者は、エンマの視点を通して見られた場面を目にしながら、彼女と同じ感情を抱くことができる。
エンマが自分でどのように感じているのか、読者に語り掛けるのではない。見えない作者が、彼女の混乱した気持ちを整理し、言語化している。

この語り口からは、主観性は感じ取られない。全ては客観的に、画家の描いた1枚の絵画のように外から眺められている印象を与える。その意味で、フロベールの小説の語り口は、非主観的だといえる。

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