フロベール『ボヴァリー夫人』 レアリスムを超えて

エンマと時代精神

エンマは存在の不快を感じ、苛立ちをシャルルにぶつける。
彼女は結婚の早い段階から夫を平凡で取り柄がないと思い始め、特別なことが起こらない平凡な人生に苛立つようになる。特別な機会を求め、空想的な恋愛に憧れる。

こうした性向は、どこから来るのか。
エンマはロマン主義の甘っちょろい小説を読みふけり、空想的で夢見がちな少女時代を過ごした。そのために、結婚後も恋愛に憧れ、現実が見えなくなり、浪費と不倫に走る女性として描かれる。

ここで注目しなければならないのは、『ボヴァリー夫人』の年代設定である。
執筆されたのは1852年から56年にかけてであり、1848年の2月革命後、ナポレオン三世が実権を握り、第二帝政を確立していった時代。
それに対して、小説の描く世界は、それより一つ前の時代。1830年の7月革命以後の、七月王政の時代。
文学や絵画の歴史から見ると、1830年代はロマン主義全盛の時代であり、1850年代はレアリスムが勃興した時代となる。

その時期のずれを利用して、フロベールはエンマを、意図的に、レアリスムの時代に生きる遅れてきたロマン主義者として設定した、と考えることができる。
ロマン主義の小説をセンチメンタルでつまらないように扱うのは、抒情的な感情の過多が、19世紀の中期には時代遅れで、滑稽に感じられたことを示すため。ある意味で、エンマの姿はロマン主義批判である。

その一方で、当時のレアリスムへの批判であり、時代精神への批判にもなっている。エンマの苛立ち、凡庸さへの不快感は、第二帝政下のブルジョワ社会に対する、芸術家たちに共通する感情と考えることもできる。

『ボヴァリー夫人』が出版された1857年、シャルル・ボードレールが書評を書き、「エンマは理想を追求する!」と強調した。
彼女において支配的なのは想像力であり、決断の早さ、限度を知らない過剰なダンディスムが彼女を特徴付ける。
その根底にあるのは、修道院教育の中で修道女たちがエンマの中に見出した、「生」への欲求である。

他方で、彼女が生きる世界は物質主義的であり、精神性への想いが失われている。想像力が欠如し、美に感激を抱くこともない。ボードレールは1846年の美術批評の序文で、すでにブルジョワに対する批判を行っていた。

1850年前後に盛んになったレアリスムは、そうしたブルジョワ精神の産物であるとボードレールは見なした。そして、『ボヴァリー夫人』の書評の中では、「従属的細部を綿密に描写するだけ」として批判している。
フロベールも、レアリスムには批判的な態度を取っていたことが知られている。

フロベールは、エンマを通して、ロマン主義を称揚し、復活しようとしたのではない。ブルジョワ社会に彼女を置くことで、精神性や理想を求めることをせず、凡庸さに自足する時代精神を浮き上がらせようとしたのだ。

『ボヴァリー夫人』を不倫小説として読み、シャルルの凡庸さを話題にするだけでは、単なるあらすじを追っているにすぎず、田舎の新聞の雑報に乗るスキャンダルな事件を読むのと変わるところがない。

ボードレールは、シャルルが奇形の足の手術をして失敗するエピソードと、夫を裏切りそうな不安な気持ちを告白するエンマの言葉を軽く聞きながす教会の神父のエピソードを、『ボヴァリー夫人』の最も本質的な要素として挙げている。想像力が欠如し、他者に対して無関心で孤立した状況は、第二帝政初期の市民たちの心性だった。

アウエルバッハの言葉を借りれば、エンマは1850年代のフランス市民社会にすっぽりとはめ込まれている。しかし、それは逆接的にである。エンマという異物を入れることで、周囲の現実が浮き彫りになる。エンマ的ロマン主義が『ボヴァリー夫人』の中で果たす役割は、その逆接の鍵に他ならない。

ブルジョワ社会の中で、芸術家達はボヘミアンとして社会の片隅の置かれていた。いくら理想を追求しても、エンマと同様に出口はない。彼等の不快感、苛立ち、不満、絶望、そうした感情に、ブルジョワ社会は全く無関心である。

食卓でエンマの向こう側に座るシャルルの姿は、そうした態度を象徴している。彼は妻の心の内に気づかず、エンマの存在に対する倦怠を理解することはない。そうした感情があることさえ、知らないかもしれない。シャルルは目の前のものだけに満足し、もし何か話したとしても、紋切り型の言葉を繰り返すだけだろう。

アウエルバッハが切り取ったたった一つの場面が、『ボヴァリー夫人』という小説の持つ価値を見事に描き出している。
レアリスムとは何か。フロベールの小説の特質。時代精神、等々。
小説全体をざっと読み退屈だと言うのではなく、こうした批評を通して小説の真価を学ぶことで、読者は徐々に『ボヴァリー夫人』の面白さを発見し、自分なりの読みを見つけることができるようになるだろう。

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