ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その7(最終) 未来の活力

第23詩節

Mais, vrai, j’ai trop pleuré ! Les Aubes sont navrantes.
Toute lune est atroce et tout soleil amer :
L’âcre amour m’a gonflé de torpeurs enivrantes.
Ô que ma quille éclate ! Ô que j’aille à la mer !

でも、本当に、ぼくは泣きすぎた。曙が胸をえぐる。
どんな月もおぞましい。どんな太陽も苦々しい。
愛はとげとげしく、ぼくを麻痺させ、陶酔させた。
おお 竜骨よ、輝け! おお 己よ、海へ出航しろ!

これまでにぼくは泣きすぎ、感覚が麻痺している。
曙、太陽、愛、それらが、胸を引き裂き、おぞましく、苦々しく感じられる。

このことはロマン主義やパルナス派の詩の中で好んで取り上げた詩の素材に対する批判と考えることもができる。
ランボーは、数え切れないほど歌われてきた月や太陽にかつては涙し、陶酔もした。しかし、それらは綱曳く人たちのテーマであって、彼の生みだそうとする新しい詩ではない。

そこで、「ぼく=酔いどれ船」は、自分に命令する。(que+接続法は、命令のを意味する。)

一つ目の命令は、船体がéclaterすること。
その動詞は、破裂するという意味も、輝くという意味にも理解出来る。
2つ目の命令は、自分自身に対して海に行くようにというもの。

これまでは、海に行くことを沈没することであると捉え、éclaterを砕け散ることだと解釈されることがあった。
その場合には、「酔いどれ船」全体を通して、自由の獲得の失敗、その結果の苦々しさを表現していることになる。

しかし、ボードレールが「芸術家の告白」の最後で叫ぶように、美を追求することには決して到達点がなく、芸術家は最初から美との戦いに負けることを宿命づけられている。
それでも美を求めるのが、芸術家なのだ。
https://bohemegalante.com/2019/02/20/baudelairle-confiteor-de-lartiste/4/

従って、竜骨に対する命令、「ぼく=酔いどれ船」自身に対する命令は、再出発の号砲だと考えることもできる。

ランボーも、故郷のシャルルヴィルを離れ、パリに向う。1871年に撮影されたで見る彼はまだ幼い。

パリに出た彼は、ヴェルレーヌを初めとする詩人達と出会い、新たな詩の創造を実践する。
その姿は、アンリ・ファンタン・ラトゥールの絵画に定着されている。

Henri Fantin-Latour, Coin de table

船の船体は輝き、「ぼく=酔いどれ船」は海に向かわなければならない。

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