クローデルと日本の美 Paul Claudel et la beauté japonaise

もう一つの美について、クローデルはこのように始める。

Votre goût au contraire va vers les images anciennes, où l’homme a presque disparu ou n’est plus représenté que par quelques effigies monastiques qui participent presque de l’immobilité des arbres et des pierre.

反対に、あなたがた(日本人)の好みは、古びた絵の方に向かいます。そこでは人間がほどんど消え去っているか、あるいは、数人のお坊さんだけです。そのお坊さんたちの姿も、木や石のようにほとんど動きがありません。

一方の美の中の中心に「人間」がいると考えるクローデルは、もう一つの美に人間の不在を感じている。
この不在というのは、全く人がいないということではなく、人間が木や石と同等の位置にいるということだろう。
そのことは、日本人の自然観と一致している。人間は自然と対立する存在ではなく、自然の中の一員であり、特別な存在ではない。
自然界における人間のあり方にクローデルが気づいたことは、彼がいかに日本の文化や自然観を理解したかを示している。

Une carpe, un singe suspendu à une branche, des fleurs, un paysage dont un pinceau magistral a établi en quelques indications aussi décisives que de l’écriture les étages superposés, voilà ce que nous montrent la plupart du temps ces kakémonos sans prix que leurs heureux possesseurs vont chercher au fond des siècles et déroulent devant nous avec des précautions infinies.

一匹の鯉、枝にぶら下がる猿、花々、大胆な筆遣いで描かれた風景。その風景は、大切な所だけ文字で書くのと同じ位明確に描かれ、何段かの層が重ねられています。そうしたものが、多くの高価な掛け軸の上に描かれたものです。そして、掛け軸の所有者たちは古くからあるものを探し、私たちに見せてくれるときには、この上もない慎重さで巻かれたものを広げます。

ここでクローデルが話題にしている掛け軸に描かれている絵は、元をたどると、鎌倉時代から室町時代にかけて禅宗とともに日本にもたらされた宋の水墨画だろう。

馬遠、風雨山水図
牧谿、叭々鳥図

こうした南宋画について、鈴木大拙は、『禅と日本文化』の中で、次のように述べている。

日本人の芸術的才能のいちじるしい特色の一つとして、南宋大画家の一人馬遠に源を発した「 一角 」様式を挙げることができる。この「 一角 」様式は、心理的にみれば、日本の画家が「 減筆体 」といって、絹本や紙本にできるだけ少ない描線や筆触で物の形を表すという伝統と結びついている。

牧谿の後を受け、日本人画家たちも誕生した。

如拙、瓢鮎図
周文、四季山水図屏風(右隻)
雪舟、天橋立図

クローデルによれば、こうした絵画を見るとき、ヨーロッパ人の最初の反応は失望だという。たしかに、画面の中に物が充満している絵画を見慣れた目には、枯山水のような絵は何も描かれていないように見えるだろう。

しかし、見る目を持つと、微妙な筆の動きから、魂の湿気(humidité de l’âme)を感じ取り、辛抱強くじっと眺めることで、生命そのもの(la vie elle-même)を感じるようになると言う。

そして、次のように締めくくる。

Et de même que vos grands seigneurs d’autrefois préféraient aux vases d’or et de cristal une simple écuelle de terre mais à quoi le potier avait su communiquer le moelleux de la chair et l’éclat de la rosée, ainsi pour exprimer l’éternel ces grands artistes, qui souvent étaient des prêtres, n’ont pas peint seulement des symboles et des dieux, mais précisément ce qu’il y a de plus fragile et de plus éphémère, de plus frais encore du frisson de la source ineffable, un oiseau, un papillon, moins : une fleur qui va s’ouvrir, une feuille qui va se détacher. C’est tout cela à quoi par un seul point de leur pinceau magique ils ont prescrit de subsister. La chose est là devant nous, vivante et immortelle, indestructible désormais dans son existence passagère.

昔の大名たちは、黄金やクリスタルの花瓶よりも粘土の茶碗を好んだ。それはシンプルだけれど、陶工が肉体の精髄と朝露の輝きを込めたものだ。このように、永遠を表現するために、偉大な芸術家達、彼等はしばしば僧侶だったが、彼等は、単にシンボルや神を描くだけではなく、心地よい泉の震えのうちでも最もか弱いもの、最もはかないもの、最も新鮮なものを描いたのだった。1羽の鳥とか、一匹の蝶。もっと小さなもの、例えば、今まさに開花しようとする花、落ちようとする葉。それら全てを、魔法のひと筆で、そこに留まるように命じたのだ。事物は私たちの前にある。生きていて、不死であり、束の間の存在の中で破壊されることもない。

クローデルがここで「永遠」や「不死」に言及していることに注目したい。
一般的に言えば、その属性を持つのは神である。
しかし、日本の偉大な芸術家達は、はかないもの、束の間の存在、弱くて小さなものを描くことで、永遠に達する。
クローデルのこの直感は、禅の精神に貫かれた室町時代に誕生した日本的美の本質を言い当てている。というのも、日本における永遠は、同じ物が永続することではなく、事物が次々に続いていくことだからである。

世阿弥の『風姿花伝』を論じる際に、馬場あき子は次のように記している。

花は四季それぞれに咲く季を得て「珍しく」そして「面白い」ものだが、もう一歩踏み込んで考察すれば、〈花〉はじつに「散る故によりて、咲く頃あれば、珍しきなり」なのである。「まことの花」は永遠のものであるはずだが、その〈永遠〉とは、咲いたままでもはや咲く期待感もなく、散るという惜しさもない、そういう類のものではないのである。咲くゆえに花なのであり、散るゆえに花なのであって、人を目放(めはな)しがたく思わせる変化そのものこそ、不変の花の真理であることを、世阿弥は停滞することのない芸道上の問題として説こうとしているのだ。
                   『古典を読む 風姿花伝』

変化することこそが永遠という思想は、無の美学を基礎付けていると考えてもいいだろう。
プラトン的なイデア界の永遠は、不動であり、地上の時間とは相容れない。
それに対して、日本的永遠は、今年咲いた桜がまた来年も咲くと感じる、移ろいの永続性である。

能の愛好者でもあったクローデルは、こうした日本的美の真理を直感し、日光のの学生達に伝えたのだった。

クローデルと日本の美 Paul Claudel et la beauté japonaise」への2件のフィードバック

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中