無の美学 能と幽玄の美

「山姥」 

世阿弥作とされる「山姥」は、能の演目の中で、禅の伝える世界観を最も直接的に伝えているといえるだろう。(ただし、金春禅竹作という説もある。)

鈴木大拙は、『続・禅と日本文化』の「禅と能」と題された章の中で、ただ一つ「山姥」だけを取り上げ、梗概を紹介しながら、多くの部分を謡曲のセリフの引用に宛てているほどである。

「山姥」の中心的なテーマは、現実と現実の彼方にあるものとの出会い。
現実は、舞妓(シテズレ)によって表される。彼女は、京の都で山姥の山回りを謡った舞によって人気を博し、「百万山姥(ひゃくま・やまんば)」と呼ばれている。
現実の彼方は、本物の山姥(シテ)。
二人が山中で出会うことで、人間と自然全体の背後で動く、目に見えない力についての言葉が交わされる。

前場

山姥の舞で人気を博す舞妓が、ある時、信濃の善光寺に参拝することを思い立ち、都の人に伴われ、京都を出発する。

越中と越後の間にある境川までやって来たとき、分かれ道があり、その中でも最も険しい道を選ぶ。
その道は、西方の浄土への道であり、阿弥陀来迎の直路とされ、上路の山へと続く。この旅は修行の一つであることが、この選択から明らかにされる。
上路の峠に入るとすぐに、昼間にもかかわらず辺りが暗くなり、一行は途方にくれる。

そこに一人の女(前シテ)が現れ、宿の提供を申し出る。
家に着くと、女は、山姥の歌の一節を聞かせて欲しいと頼む。その際に、本当に山姥とはどのようなものだと思っているのかと、旅人たちに問いかける。
すると、舞妓は、「山姥は山に住む鬼女」と答える。それに対して、女が言う。

自分も山に住む女であり、山姥の一人といってもいい。その山姥が様々な山を回る歌を歌い、舞を舞いながら、あなたは、「言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ」とは恨めしい。

この言葉は、現実の世界に生きる舞妓が、山姥を歌い舞いながら、真の山姥を知ろうともしないことを明かしている。
現実を生きる普通の人々は、この舞妓と同じように、現実の背後に動く力を知ろうともせず、それがあることにさえ気づかないでいる。
旅が修行というのは、気づきへの出発だからである。

舞妓は女の言葉を聞き、恐れもあり、歌い始めようとする。
すると、女は、日が暮れるのを待ち、月が出てからにして欲しいと言う。そうすれば、自分も真の姿で現れ、舞妓とともに踊りを踊ると言い残し、姿を消す。(中入り)

日が暮れ、月が出るのを待つという提案は、鬼の姿をした恐ろしい存在を美に変える芸術観に基づいている。
異次元の存在である亡霊たちは、何らかの恨みを抱き、怨念のために醜い顔や姿をしている。そうした醜を美的な存在として表現するところに、幽玄の美がある。

後場

「月に声澄む深山」で舞が始まる前に、山姥(後シテ)が独白をする。

あら物すごの。深谷やな。あら物すごの深谷やな。寒林に骨をうつ。霊鬼なくなく前生の業を怨む。深野に花を供ずる天人。返す返すも幾生の善を悦ぶ。いや善悪不二。何を怨み。何をか悦ばんや。
萬箇目前の境界。懸河渺々として。
巌峨々たり山又山。
いづれの工か青巌の形を。削りなせる。水また水。誰が家にか碧譚の色を染め出せる。

深い谷は、現実の奥を指す。
現世で悪事を働いた者は地獄でも苦しみ、我が身を打つ。善行を行った者は、天国にいて、自分の身に花を飾る。そう考えるかもしれない。
しかし、現実の奥、つまり悟りの世界では、善も悪も相対的なことにすぎない。
恨みも喜びも現世的な価値観であり、その本質をたどれば全ては一つ。
あらゆる事は目前に示されている。勢いよく流れる川は遙かまで続いている。
山は高くそびえている。
誰が山を削り、川の水を青く染めたのか。それはどうでもいいことで、自然はただそこに存在している。

山姥の口から語られるこの世界観は、まさに禅と対応する。
それは超越的な叡智と言い換えてもいいだろう。全てはそこにあり、人間もその中の一つにすぎない。

そして、その生の存在を現世的な目で見るときには、普通に考えられている山姥の姿のように、醜く恐ろしく見える。一言で言えば、鬼。

舞妓は、初めて山姥の本当の姿を見、山姥を知る。
都で評判を取っていた時には、ただ歌い踊っていただけだった。そして、それが一般には現実と受け止められている。
ここで始めて、表層的な現実と真の実在が交わることなる。

そこで、前場の予告通り、「山姥の山まわり」を舞妓が舞い、山姥が続く。
鈴木大拙はこの場面に関して、「山姥が自分のことを歌うのか、舞妓が山姥のことを歌うのか、区別しがたい。両者は互いに混じり合ってしまう。」と考えている。

舞の後ろで、地唄(コーラス隊)が、山姥とは何か解き明かしていく。

それ山といつぱ。塵泥より起こつて、天雲掛かる千丈の峰、海は苔の露より滴りて、波濤を畳む万水たり。

天までそびえるような山々も、埃や泥土が積もって出来たもの。
巨大な海は、苔から流れる雫が集まったもの。
地上の大小など、ないに等しい。

遠近の。たつきも知らぬ山中に。おぼつかなくも呼子鳥の。声凄きおりおりは。抜木丁々として。山更にかすかなり。法性峯聳えては。上求菩提をあらわし、無明谷深き粧いは。下化衆生を表して金輪際に及べり。そもそも山姥は。生所も知らず宿もなし。ただ雲水を便りにて、至らぬ山の奥もなし。

遠くか近くかわからない山の中で、カッコウが心細げに鳴いている。
木々を切り倒す音も響き渡り、山はますます幽かになる。
法性を供えた嶺がそびえ立ち、菩提を追い求める菩薩の心を示している。
無明を表す深い谷は、菩薩が衆生を救う慈悲の心を示し、大地の底にある金輪際にまで及んでいる。
山姥は、生まれも住まいもわからない存在。雲や水を頼って、山奥まで尋ねていく。

この一節は、仏教用語がちりばめられ、自然が仏と一つになり、信仰の対象として語られている。
実際、自然そのものが仏性(ほっしょう)を宿していると言われ、厳かで神聖である。
法性と無明(むみょう)とは対立する概念であり、迷いや苦しみにつながる無明に見える谷にも菩提(ぼだい)はある。つまり、極楽浄土で成仏し、悟りに達する。
それほど、菩薩は慈悲に溢れている。
山姥が自然の中で山回りをする存在であるとすれば、それは菩薩でもあり、自然そのものでもある。

隔つる雲の身を変へ。仮に自性を変化して、一念化性の鬼女となつて目前に来れども、邪正一如と見る時は。色即是空そのままに、仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり、仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり、柳は緑、花は紅の色々。 

山姥は彼方にある雲である身体を変える。本性を変化させ、仮の姿として山姥として姿を現す。
正も邪も一つであると見れば、色即是空(しきそくぜくう)、つまり、この世の全てのものに実体はなく、縁起によって生成する。
仏の法があれば、この世の法もある。煩悩もあれば、悟りもある。仏もいれば、迷いの世界を生きる人間もいる。また山姥もいる。
柳は緑で、花は赤い。そうした対立全てが、空(くう)である。

こうして、禅的な絶対的同一の世界観が、美しい舞とともに観客に伝えられる。

百万山姥(ひゃくま・やまんば)は、都で舞う間、山姥の実体のことなど考えもしなかった。それが山中で本物の山姥と出会うことで、真実在の存在を体験し、現実の背後にある目に見えない力を知る。
「山姥」は、そうした現実と実在の出会いを見事に描いている。

無の美学 能と幽玄の美」への2件のフィードバック

  1. dalichoko 2019年9月2日 / 5:13 PM

    とても勉強になりました。いつか近々座禅にも挑戦したいと念じています。
    (=^・^=)

    いいね: 1人

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