ヴェルレーヌ 「秋の歌」 Verlaine « Chanson d’automne » 物憂い悲しみ

第2詩節

Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l’heure,
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure ;

ひどく息苦しく/青ざめている、その時/鐘が鳴る。
私は思い出す/昔の日々を/そして涙する。

[ I ]も[ o ]も第一詩節のように反復されることはないが、流音の[ l ]は、blème(青白い)だけではなく、l’heure(時間)とpleure(鳴く)の中に含まれ、流れ去っていく時間の中で過去を思い出すことが、涙を流すことに繋がることが、音で示されている。

 第一詩節では、私の心がメランコリックになる理由は秋の風の音だったが、第2詩節になると、過去の日々の思い出がその原因であることがわかってくる。
音的にも、souviens(思い出す)とanciens(古い)が韻を踏み、「束の間の現在」に対する「不動の過去」という塊が感じられる。

この現在と過去の対比は、アポリネールの「ミラボー橋」の中でも言及される。あの有名なリフレインを思いだそう。

Vienne la nuit sonne l’heure   夜よ来い 時よ鳴れ
Les jours s’en vont je demeure  日々は過ぎ 私は留まる

https://bohemegalante.com/2019/03/08/apollinaire-pont-mirabeau/2/

言い方を変えると、アポリネールはこのリフレインで、ヴェルレーヌにウインクし、「時は去っていくけれど、ぼくは残るからね」と言っているようでもある。

第3詩節

Et je m’en vais
Au vent mauvais
Qui m’emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
Feuille morte.

わたしは去る/悪い風に吹かれて/私を運ぶ
あちらこちらに/似て/枯葉に

第1詩節では通奏低音だった[ o ]の音が、第3詩節では、mauvais(悪い)、emporte(運ぶ)、morte(死ぬ)の中で響き、枯葉のように風に吹かれてあちこちに飛ばされる、儚い「私」の定めを印象付ける。

Deça, delàの音の響きは、あちら、こちらと吹き飛ばされる様子を、見事に表現する。

そして、最後に、過ぎ去る時間の中を生きる「私」の姿が、枯葉に例えられる。

風が私を運ぶときには、鼻母音の[ en ]が、 ventとm’emporteを音で繋ぐ。
私が枯葉に似ていると言うときには、[ il ]の音がpareilとfeuilleを繋ぐ。
意味と音の見事なハーモニー!

秋の淋しげな風景が「私」の心持ちとつながり、特別な原因はなくても、物憂い気分になる。
ヴェルレーヌの「秋の歌」は、そうした穏やかなメランコリーを、言葉の音楽性を通して見事に表現している。

レオ・フェレが歌う「秋の歌」だとメランコリーが消え、一人ではなく、恋人と二人で風に吹かれている感じがする。

歌を聴くのもいいが、朗読を聞き音を確認しながら、自分で口に出して詩を味わうのが最もいいだろう。

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