日本における自然観と美意識 もののあわれ

もののあわれ

「ながめ」と「あわれ」

「次々に」という時間意識は、人間も自然も時間の中で推移し、全てのものは儚く消えていくという意識につながる。

散る花を  何か恨みむ  世の中に  我が身も共に  あらむものかは (詠人知らず)

花も散るし、人間も衰え死んでいく。どちらも同じように時間に流されて消えていく。時の流れの無情さと、我も人も自然でさえも同じだと思うことで、運命を甘受する諦観を歌っている。

小野小町も、永遠に続くものはなく、美しい花が時間とともに萎れていくように、私も年老いていくという感慨を歌う。

花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

「散る花を」の句とは違い、「花の色は」では、全てが衰える運命を甘受するという以上に、深い情感が込められている。「いたづらに」という言葉が、作者の悲しみをこっそりと暗示し、大きな声で悲しいと言われるよりもずっと深く、秘められた感情が表出されるのである。

この和歌について、紀貫之は、『古今和歌集』の「かな序」の中で、「あはれなるようにて強からず」と書いている。その「あはれ」の感情は、小町の「いたずらに(・・・)ながめせし」という姿勢に由来している。

「ながめ」というのは、風景を遠くから見渡すという意味と同時に、もの思いにふけりながらぼんやりと見るという意味でもある。つまり、凝視してはっきりと物を見るのではなく、景色の風情、趣に思いをはせ、心の中にその情景を取り込んでしみじみと感じることといっていいだろう。

『源氏物語』の「須磨」の中での一場面。
光源氏は須磨を離れ京都に戻る決意をし、左大臣に挨拶に行き、その夜を左大臣宅で過ごす。翌朝、彼は朝早く、暗い間に還ろうとする。その翌朝の描写は次の様なものである。

明けぬれば、夜深う出でたまふに、有明の月いとをかし。花の木どもやうやう盛り過ぎて、わづかなる木陰の、いと白き庭に薄く霧りわたりたる、そこはかとなく霞みあひて、秋の夜のあはれにおほくたちまされり。隅の高欄におしかかりて、とばかり、眺めたまふ。

光源氏が朝暗い間に大臣宅を去ろうとする時、有明の月がとても美しい。花の咲いた木々はすでに盛りを過ぎているが、少しの花が若葉の蔭かげに咲き残ったのが見える。わずかに霞がかかったその庭の様子は、「あわれ」の面で、秋の夜に優っているとさえ感じられる。源氏は、隅すみの欄干によりかかって、しばらくその様子を「ながめ」ている。
こう言ってよければ、「ながめ」ることが、「あわれ」を生み出す姿勢である。

それは何故か?
答えは、眺めることは、客観的に対象に視線を送ることではなく、対象以上の何かを感じ取ることにある。見えないものまでも見る行為。

柿本人麻呂の作とされる明石の浦を歌った歌は、見える物があえてぼんやりとしている。

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島かくれゆく 舟をしぞ思ふ

ほのかに夜が明け、朝霧が立ちこめる風景は、おぼろげな印象を与える。その風景の中を小さな舟が浮かび、島の向こうへと進み、見えなくなっていく。そして、見えるものが消えることで、見えない何かが感じられる。
その結果、ほのぼのとした「ながめ」がしみじみとした物思いへと人を誘い、「あわれ」という感情を導く。

もののあわれ

「あわれ」という感情は、時間と共に何かが失われていく時に感じるものであり、それが美と結びつくとき、「もののあわれ」という表現がなされることになる。

春はただ 花のひとへに 咲くばかり、もののあはれは 秋ぞまされる

『拾遺和歌集』に収められた詠み人知らずのこの歌は、「もののあわれ」が、消滅と関係していることを示している。

花は、咲き誇る時ではなく、散る時。
春の景色であれば、夜、月のおぼろげな光の下で、霧や霞に包まれている時。
恋であれば、燃え上がる時ではなく、はかなく終わる間際。

そうした時、悲しみを感じるだけではなく、美を感じ取るとき、もののあわれという言葉で表現される感覚が現出する。

その際に、失われる事態をながめ、そこに喪失以上の何かを直感する、人間の心の動きを欠かすことはできない。

心の動きを最も感じやすいのは、恋愛においてだろう。しばしば理性では抑えきれない情念があふれ出し、制御不能となる。
藤原俊成はそのことをよく知っていたに違いない。

恋せずば 人は心も なからまし もののあわれも これよりぞ知る

恋をする時、人の心は大きく動く。その動きのおかげで、もののあわれを知ることができると、俊成は歌った。
もう一歩踏み込んで考えると、心が外の世界の変化に対応して動き、散りゆくものや消え去るものと一つになるとき、もののあわれの美を感じると言うこともできる。

『源氏物語』では、六条院の鈴虫の宴の折、光源氏は琴を合奏し、興が乗ってきた時、「もののあわれ」という言葉を口にする。

月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。

月を見る夜にはいつでも「もののあわれ」の感を抱くけれど、その夜の月の色はことの他その感が強い。そこで、この世のことではない世界、つまり死後の世のことまでも想像するというのである。

この言葉の後、光源氏は、亡くなってしまった権大納言が、花や鳥の色や音の美を語る相手として、今は懐かしく思われると付け加える。

この一節から、紫式部のもののあわれは、見えるものが消えていくことに対してだけではなく、消えてしまい、今では目に見えないものを思い出させる役割を果たしていることがわかる。
あわれが哀れだけではなく、心が慰められるという含意を持っている理由が、そこにあるのだろう。

。。。。。。。。。。

平安時代に成立した美的な感性は、全てのものは時間の中で押し流され消えてしまうという時間意識に基づき、哀しみを感じると同時に、しみじみとした物思いに浸り、心を慰めることにしっとりとした喜びも見出した。

「もののあわれ」に象徴されるこの美意識は、室町時代の美意識の核となる無の思想と複雑に融合しながら、日本的な美を生み出していった。
その点については、次の段階の検討が必要になる。

日本における自然観と美意識 もののあわれ」への3件のフィードバック

  1. Angelilie 2019-10-28 / 01:15

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    いいね

    • hiibou 2019-10-28 / 06:53

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      いいね: 1人

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