ボードレールの美学 想像力と現前性

外と内の融合

a. ルソー的夢想:自己と自然の一体化

対象から官能的な刺激を受けた芸術家は、想像力を働かせて対象を分析し、総合する。(「1859年のサロン」)
こうボードレールが書くとき、いかにも、私という主体が客体に対して、科学的で客観的、知的な働きかけをするように読めるが、しかし彼の思考はまったく違う方向に働く。

対象を様々な要素に分解するとき、彼が注目するのは、「精神的な意味(sens moral)」。精神は、対象ではなく、主体の側に由来する。
従って、ボードレール的想像力は、主体と客体を融合し、一体化する方向に動くことになる。

主体と客体の一体化を彼が語るとき、頭にあるのは、ジャン・ジャック・ルソーの夢想である。
孤独な散歩者ルソーは、スイスの湖の畔で夢想に浸っている時、自分の心臓の鼓動と波の打ち寄せる音が一つに感じされ、自己と自然が一体化する感じを味わう。それは至福の時であり、彼は地上では決して得られない恍惚(extase)に達した。
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/

ボードレールは、このルソーの体験を思い起こさせる記述をすることがある。

1860年の『人工楽園』の序文では、「暗く孤独な散歩者」を「群衆のうごめく波」の中に見出す。スイスの自然をパリの群衆に置き換え、ルソーの体験を19世紀パリへ移行させる意図を、そのことによって示したといえる。

1862年の「芸術家の告白」では、海と空の境が消え去った無限を前にして、芸術家は「夢想の偉大さの中で自己を失う」。
https://bohemegalante.com/2019/02/20/baudelairle-confiteor-de-lartiste/2/

ルソーの夢想への参照は、自己と自然の一体化体験を彼の芸術観の基盤としていることを、こっそりと明かしている。

b. 人工楽園

対象と主体の一体化は、『人工楽園』の中で、ハシシ(hashish)と呼ばれる大麻による幻覚体験の中で、明瞭に描かれる。

Salvator Dali, The Persistence of Memory

幻覚が始まると、物の形がひどく変形し、これまで見たことのない姿を取り、そして幻覚者の中に入り込んでくる。あるいは幻覚を見ている者が、自然の事物の中に入り込む。

1851年の記述では、ボードレールはその時の様子を、音に色がつき、色が音楽を奏でると言う。これは五感が相互に関連し合う「共感覚」の世界に他ならない。

そこでは物も私も要素に分解され、相互に浸透し、どちらがどちらかわからなくなる。「あなたは座り、煙草を吸っている。と、パイプの中にいるように思われる。パイプがあなたを吸い、あなたは青っぽい雲の形をして蒸気になる。」

1860年になると、パイプ以外にも、木や鳥の例が出される。
木を見つめていると数秒のうちに木になり、木々のざわめきがあなたの呻きになる。
青空の彼方を飛ぶ鳥は、空を飛びたいというあなたの欲望を表現していて、鳥を見ているあなた自身がすでに鳥になっている。

こうした主体と客体の一体化を、ボードレールは、客観性(objectivité)の異常な増大と考える。
「客観性があなたの中で異常に発展すると、外部の事物をじっと眺める時あなたは自己の存在を忘れ、外部の事物と混ざり合うようになる。」

c. 思い出と生命

薬物による幻想(hallucination)はある意味で特殊なものであり、ボードレールの時代には、それが精神病患者の体験する狂気の状態と比較されたりもした。

しかし、より身近な例を考えることもできる。それは「思い出」。
思い出の中の出来事は、かつて現実に存在したと思われていること。それを思い出すのは現在であり、思い出す時には存在していない。
とすれば、思い出の映像は、現実の事象と私の内的な世界が混ざり合ったイメージだといえる。

さらに言えば、自然の事物は物理的には無性物なこともあるが、思い出のイメージには「私」という人間の生命が息づいている。
その意味で、自己と世界の混合体は、常に生命を宿している。

『悪の華』に収められたスキャンダラスな韻文詩「屍」の中で、散歩者は街角で屍を見る。それを客体として外から見れば、生命がなく、醜悪な存在でしかない。
しかし、死体にたかるハエの羽音やウジ虫たちのうごめきをながめ、五感で捉えていると、その動きが死体に生命を与えているように感じられる。
その描写は、醜悪でありながら、しかし生命を感じさせる。

蠅たちがブンブンうなっていた、腐った腹の上で。
そこからウジ虫の黒い大群が湧き出、
濃い液体のように流れていた、
生命あるボロ着に沿って。

https://bohemegalante.com/2019/10/05/baudelaire-une-charogne-poeme-amour-insolite/3/

この詩句の最後にあるように、死体に生命が与えられる。
醜い死体をながめるこの視線が生み出すイメージは、自己と自然が一体化し、客観性が異常に増大して主観性と一つになる世界像と並行関係にある。

d. 暗示

主客が一体化した世界は、別の視点からすると、一つの世界がもう一つの世界を暗示するということでもある。

ボードレールの世界観によれば、現実そのものであるかのように思い込まれている地上の事物の存在は、それほどしっかりしたものではない。むしろ、「本当の現実」は夢の中にある。

自然の世界は精神の世界の中に入り込み、精神世界の「糧(pâture)」になり、言葉で言い表せない混合体(amalgame indéfinissable)を作り出す。
その混合体をボードレールは個性(individualité)であると見做す。
一人一人の個性は、物質的な存在と心的な存在が入り交じっていることになる。

こうした世界観の中で、官能を強く呼び覚まし、想像力を作動させる「女性」は、夢に巨大な闇や光を投げかけ、自分とは別の生を生きる存在であると、ボードレールは言う。
そこで、「女性」は現実に生きながら、夢の世界を絶えず喚起する暗示的(suggestive)存在でもある。

こうした女性のあり方は、想像力の働きを教えてくれる。
「1859年のサロン」で、想像力は世界の始まりの時、類似(analogie)と暗喩(métaphore)を作り出したと記されている。

類似が成立するためには、二つの存在が前提になる。
例えば、一方には赤い色があり、他方にはパラの香りがあるとする。類似は、赤と香りをつなげる。このつながりは感覚的な対応(correspondance)といえる。

隠喩も二つの存在が前提になりるが、一方の項目は隠れている。
隠れているのが精神的な存在だとすると、地上的なものが精神的なものを指し示すと考えられる。
例えば、絵画の中では、白い鳩(見える物)が精霊(見えない物)を象徴しています。

このように考えると、類似も隠喩も、「暗示」に基づいていることがわかる。

こうした世界観は特殊であるかのように見えるが、実はごく普通のことである。
私たちがあるものを見、その後でそれを思い出すとき、見た対象は私たちの中に取り込まれ、主観性を帯びている。それは客観と主観の融合物である。
そのために、同じものを見たとしても、人によってイメージは違っている。
芸術家は、そのイメージを表出し、作品を制作する。

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