雌猫アカの世界 神秘主義について その1

人間の世界

実は、人間もアカと同じ「生」を生きている。
ただし、人間の場合には、自己意識があり、「生の流れ」にカレンダーの区分の影が写っている。
そのために、区分のある世界、時間が一律に流れる世界を「現実」だと信じているのである。

一旦時計の時間を知ってしまうと、現実はその時間によって区切られ、時間とは時計によって定められていると思い込んでしまう。
その区分に枷をはめるのは、言語。
1時、2時、今日、昨日、明日、昨年、来年等々といった言葉が、時間の「生の流れ」に対して、目印となる影を付ける。
そうなると、その言葉が強制力を発揮し、時間は客観的に測ることができるという思いから逃れることができなくなる。

実際には、時間に限らず、全ての事物が言葉によって整理されている。
例えば、この動物は何だろう。

すぐに言い当てることができる人は少ないのではないか。
その理由は、あまり見慣れていず、鹿なのか、ロバなのか、牛なのか、はっきりわからないから。

次の2種類はわかりやすい。

上は鹿、下は牛。
なぜすぐに答えられるのかと言えば、見慣れていて、動物の種類を指す名前を知っているからだ。
一度、鹿は鹿、牛は牛と認識できるようになると、多少違いがあっても、目にしている動物が何か言えるようになる。

この動物は、角があり、体格は牛のように堂々としている。上の鹿とは随分と違っている。しかし、鹿だとすぐにわかる。

このように、一度区別がつくようになると、何の疑いもなしに、鹿と牛は違うもので、その違いは明らかだと思ってしまう。

角のない雌鹿と堂々とした角をはやした雄鹿を、鹿だと思わずに見比べると、ずいぶんと違っている。
しかし、その違いにもかかわらず、同じ鹿という種類の動物だと直感的にわかる。それは、鹿という言葉によって、他の動物の種類、例えば牛とは違うという区別を知っているからだ。

最初の写真の動物がカモシカであると言われ、何度かカモシカを見るようになると、今度は直感的に、カモシカに見えるようになる。ちょうど、牛が牛に見え、鹿が鹿に見えるように。

「生」の世界では、一頭一頭の動物は違っていて、種としてのまとまりは意識されない。
言葉のない世界に生きるアカは、一緒に街角に住むサブを見て猫だと思い、時々通りかかる犬を見て犬だと思うことはないだろう。
いつも撫でてくれるオジサンを男だと思い、アカ、アカと何度も呼ぶオバサンを女だと思うこともないだろう。
ただそこにあるものが現れ、それに対して反応する。それだけだ。

犬や猫、男や女の区別が一度確定すると、現実の区別だと見なされる。
しかし、その区分は、アカの世界に実際に分け目が入れられているのではなく、分け目の「影」が映っているにすぎない。
しかし、人間は、言葉を使うことで、区分の影を実体だと思い込み、それが現実だと信じている。
昨日の次には今日が来て、明日に向かう。犬と猫、牛と鹿は違う。カモシカは、その名前にもかかわらず牛科の動物だと知った後からは、カモシカをウシ科に分類する。
その区別を疑うことは、非理性的な思考に属すると見なされるだろう

その結果、人間がもしアカを見て、アカの世界を想像するとしても、区分のある世界観を投影することになる。
アカは何を考えているのだろうかとか、初日の出を見てアカもすがすがしい気持ちなのだろうか等と考えてみる。
それほど、言語による区分の影のない世界を想像することは難しくなっている。

人間の世界では、時計によって測ることができる時間が流れ、私とあなたの区別は明白で、鹿は牛ではない。

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