ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 3/4

第17詩節。突然、偉大な魂に対する問いかけが始まる。

Et vous, grande âme, espérez-vous un songe
Qui n’aura plus ces couleurs de mensonge
Qu’aux yeux de chair l’onde et l’or font ici ?
Chanterez-vous quand serez vaporeuse ?
Allez ! Tout fuit ! Ma présence est poreuse,
La sainte impatience meurt aussi !

あなた、偉大な魂よ、あなたは夢を希望するのか、
いつか偽りの色をなくす夢を。
その色を、肉体の目に対して生み出すのは、波長と黄金。
あなたは歌うのか、おぼろげになる時に。
さあ、全てが逃げ去って行く!私の存在は穴だらけだ。
神聖な焦燥も、死を迎える!

あなた(vous)と呼びかけられる偉大な魂(grande âme)とは何だろう。

その魂と対比的に語られるものが、肉体の目。それは、ここ(ici)に存在する。
とすれば、物質的な肉体とは対立する精神性であり、これまで死者たちとして複数で表現されてきたものの集合体だと考えることができる。
目に見えない超越的な存在。例えば、神のような。

Puvis de Chavannes, Le Rêve

その魂に対する問いかけは二つ。
一つは、夢(songe)を望むのか。もう一つは、歌うのか。

夢(songe)に関しては、偽り(mensonge)と韻を踏み、人を欺く可能性があることが示される。
しかし、その源泉は、ここ=現実の波長と黄金という魅力的なもの。

二つ目の問いである歌は、詩の本質的な側面。そして、歌われるとしたら、魂自身が蒸気のように消え去る時。

二つの問いとも、怪しげだけれど、人をあの世に誘うのに十分なものを含んでいる。

実際、「私」も抗いがたく惹かれれ、こう叫ぶ。「さあ!(Allez !」
出発の合図だ。
その存在(ma présence)はすでに気孔が開いている(poreuse)。
彼方に向かいたいという抑えきれない気持ち、焦燥(impatience)も、もう必要ない。なぜなら、すでに出発が開始されているのだから。

第18詩節では、不死をお前(toi)と呼び、母性と偽りの両面が示される。

Maigre immortalité noire et dorée,
consolatrice affreusement laurée,
Qui de la mort fais un sein maternel,
Le beau mensonge et la pieuse ruse !
Qui ne connait, et qui ne les refuse,
Ce crâne vide, et ce rire éternel !

痩せ細り、黒く、黄金の不死よ、
人を慰め、恐ろしい様子で月桂樹を被り、
死を母の胸にしてしまう不死よ、
美しい噓、神聖な策略!
誰が知らず、誰がそれらを拒絶しないのか、
この空の頭蓋骨を、この永遠の笑いを!

前の詩節で偉大な魂と呼んだものを、今度は不死(immortalité)と呼び、別の側面を明らかにする。その違いを際立たせるため、あたな(vous)という読みかけも、お前(tu)に変えられる。
ちなみに、tuに変わったことは、動詞の活用によって示される。(immortalité… Qui … fais…)

knabengoff Alexandra, crâne futur

ここでは、不死の矛盾した側面が次々に暴かれる。
痩せ細り(maigre)、黒く(noir)、かつ黄金(dorée)。
人を慰める(consolatrice)が、月桂樹を被った様子(laurée)は恐ろし気(affreusement)だ。
死(la mort)を母の胸(un sein maternel)にする。
偽り(mensonge)は美しく(beau)、欺瞞(ruse)は敬虔(pieuse)。

偉大な魂を求めて、「さあ(Allez !)」とうかつに死に向かえば、頭蓋骨の中は空になる。それ知らない者がいようか(Qui ne connaît)、と詩人は言う。だからこそ、それを避けないもの者はいない。(Qui ne … refuse)。

では、笑い(ce rire)は誰のものか?
ファウストを先導するメフィストフェレスのような嘲笑の笑いなのか。それとも、焦燥にかられて不死を求めた者が自分を揶揄する笑いなのか。
いずれにしろ、その笑いは永遠(éternel)であり、不死に属する。

偉大な魂から痩せた不死への変遷を経て、思索は再びより具体的な死者たち、墓地の眠る死者たちに戻ってくる。(第19詩節)

Pères profonds, têtes inhabitées,
Qui sous le poids de tant de pelletées,
Êtes la terre et confondez nos pas,
Le vrai rongeur, le ver irréfutable,
N’est point pour vous qui dormez sous la table,
Il vit de vie, il ne me quitte pas !

奥深い父達よ、誰も住まない脳髄たちよ、
シャベルで何度もかけられた、これほど多くの重さの下で、
あなたたちは、土であり、私たちの足取りを混乱させる。
本当にがつがつとかじる存在、反論の余地のないうじ虫は、
墓の銘板の下に眠るあなたたちのために存在するのではない。
うじ虫は生を生き、私から離れない!

墓に死者を埋めるときには、上から多くの土をシャベルでかける(pelletées)。
そして、地中で死者たちは土になり、個体性を失う。
人々は、墓を見ればどこに誰が埋まっているのかわかると思い込んでいるが、しかし、地下の中では誰が誰かわからず、私たちはどこに自分の祖先が眠っているのか、本当は判断がつかない。
そのために、土(la terre)である死者たちは、私たちの足取り(nos pas)を混乱させるのだ。

このように、土になり個別性を失った死者たちと、彼等を弔おうとする生者たちの関係に言及した後、詩人の意識は、「私」へと向かう。
その時に中心となるのは、ウジ虫(ver)。

Le vrai rongeur, le ver irréfutableと並列された詩句は、[v] と[ r ]の二つの子音が反復され(アリテラシオン)、ウジ虫が何かをかじる存在であることが音の点からも強調されている。

それは、地中の死者たちにとっては、彼等の肉体をかじり、分解し、土にしてしまうもの。第14詩節では「一群(un peuple)」、第15詩節では「幼虫(la larve)」と呼ばれた。
墓石の下で、死者たちの個体性を失わせ、普遍にと変えるのが、それらの働きだった。

しかし、ここでは、ウジ虫は死者たちのためにあるのではないと言われる。
それは、生の側に属し、私と共にある。

では、それは何か。
第20詩節から、私をむしばむものへの問いかけが始まる。

Auguste Rodin, Le Penseur

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