マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 3/7

乳母に向かって、見たのかと問いかけた後、エロディアードは現在の自分について語り始める。

Je m’arrête rêvant aux exils, et j’effeuille,
Comme près d’un bassin dont le jet d’eau m’accueille,
Les pâles lys qui sont en moi, tandis qu’épris
De suivre du regard les languides débris
Descendre, à travers ma rêverie en silence,
Les lions, de ma robe écartent l’indolence
Et regardent mes pieds qui calmeraient la mer.

私は立ち止まり、流謫を夢見ているのです。そして、むしるのです、
噴水が私を迎えてくれる池の近くにいるかのように、
蒼白い百合の花、私の中にある百合の花を。ライオンたちは、夢中で、
目で追っています、憔悴した残骸が、
音を立てない私の夢想を横切り、下って行くのを。
ライオンたちは、私の衣からダラリとして様子を遠ざけ、
私の足を見つめています。海さえ鎮める私の足を。

この7行の詩節の前半では、エロディアードが主体となる行動が示され、後半ではライオンたちが主体となり、エロディアードはライオンたちが見つめる対象、つまり、動作の客体になる。

では、主体として彼女は何をするのか。
まず、立ち止まり、夢を見る。流謫あるいは異国に追放される夢は、それに続く詩句の語る内容が、全て彼女の夢想(rêverie)であることを予告している。
だからこそ、彼女が葉をむしる(effleuiller)青白い百合の花(les pâles lys)も、彼女自身の中にある花なのだ。

夢想の世界で、人は夢見る主体でありながら、その対象でもある。
その世界は、「私」と「鏡に映る私の像」との関係を思わせる。

Delacroix, lion dévorant un arabe

エロディアードを客体にするのは、ライオンたちの視線。

そのライオンたちが夢中になって見ているのは、憔悴した残骸(les languides débris)。それは、彼女がむしる百合の花びら。その関係は、Lysの [ i ]の音が、languIdes débrIsと二度反復されることで、音によって示される。

エロディアードの内部では百合の花びらが次々の落ち、それを夢中になって見ているライオンたち。
そのライオンたちが、エロディアードのダラリと垂れ下がった衣服を持ち上げ、彼女の足を見つめる。
その足は、海をも鎮める力を秘めている。

全ては、エロディアードの夢想の世界での出来事のように思われる。
そこで、彼女は主体でもあり、客体でもある。

しかし、その言葉を聞く乳母は、現実的な感覚を持ち、言葉は現実を指し示すと信じている。
例えば、ライオンと聞けば、現実のライオンを連想する。
そのために、彼女はエロディアードの言葉の耳にしながら、現実的な恐怖を感じ、体を震わせたのだろう。
それを目にした王妃が、言葉を続ける。

Calme, toi, les frissons de ta sénile chair,
Viens et ma chevelure imitant les manières
Trop farouches qui font votre peur des crinières,
Aide-moi, puisqu’ainsi tu n’oses plus me voir,
A me peigner nonchalamment dans un miroir.

お前の年老いた肉体の震えを、鎮めなさい。
こちらに来て。私の髪は、手に負えないほど
逆立っています。世の女たちが恐れるライオンのたてがみのように。
手伝って、お前はもう私を見る勇気がないというのだから、
髪を無造作にでも整えるのを。鏡の中で。

エロディアードは、乳母の狼狽の原因をあえて誤解してみせる。
つまり、乳母は彼女が生きていることが信じられず、自分の目にしている姫君が亡霊ではないかと案じ、彼女を正視できないでいる。
そのことを知った上で、髪があまりにも逆立ち、ライオンのたてがみのようだから自分を見ることができないのだろうと、現実的な解釈をする。

そして、鏡の前で髪を整えるのを手伝うようにと命令する。
その解き、「見る」と対応する最も重要な単語が用いられる。
それは、鏡(miroir)である。

Berthe Morisot, Devant le miroir

その際、マラルメは、エロディアードのセリフの最後にmiroirを置き、その上で、前の行の最後に置かれたvoir(見る)と韻を踏ませる。

さらに、voirの目的語語として、me(私)を置き、私(の髪)を梳かす(me peigner)と、「私」を目的語にする。
構文の上でも、主体となる「私」と目的語になる「私」を明示し、「私」が「私」を見るという構図を浮かび上がらせる。

この構図こそが、「エロディアード 舞台」の最も基本的な構図であり、マラルメの詩の中心にある「虚無」の姿勢でもある。
https://bohemegalante.com/2020/04/18/mallarme-herodiade-langue-moi-beau-1/2/

自分の顔を自分で見るには、鏡に映った自分の顔、つまり鏡像を見るしかない。
自分という実体に到達するためには、映像という非実体を媒介にすることが不可欠である。
そこで、実体としての「私」を保証する現実は存在せず、虚像を通してしか「私」を確認できないことになる。
そうした自己のあり方の根底にマラルメが見出したのが、「虚無(le Néant)」だった。

この「虚無」は決して否定的な側面だけではない。
一つの効果を生み出すように完璧に制作されたフィクションは、目的とされた効果を生み出すことができる。
そして、マラルメは、詩作品の生み出す効果を「美」と定めた。
彼はある手紙の中で、「虚無へと長い間下った後にあるのは美だけである。」と記している。

乳母の最初の問いは、生きているのか、亡霊なのか、というものだった。
エロディアードは、自分を主体の立場に置いたり、客体の立場に置いたりしながら、最後に、鏡の前に座り、自分の姿を見る。
それは、さまに、この詩の中心的なテーマとなる姿勢である。

この5行の詩句では、乳母に対する要求を、 « Calme (2) », « Viens (1) », « Aide-moi (3) »と短い音節の表現にし、リズムよく、現実的な印象を与える。
それは、夢想を語る部分では、比較的長い音節の表現によって、自己の内面を描いたことと対照をなしている。

エロディアードは、乳母のいる現実の世界で、鏡の目に座り、自己を見る。

最後に、もう一度、朗読を聴いてみよう。3分38秒から、Par quel attraitが始まる。



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