マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 5/7

N.                     

Comment, sinon parmi d’obscures
Epouvantes, songer plus implacable encor
Et comme suppliant le dieu que le trésor
De votre grâce attend ! et pour qui, dévorée
D’angoisse, gardez-vous la splendeur ignorée
Et le mystère vain de votre être ?

H. (エロディアード)

Pour moi.

          N. (乳母)

どのように、人を恐れさせる暗い星たちに
囲まれてでないとしたら、今まで以上にに呵責に夢見るのでしょうか、
ちょうど、あの神に祈願するようにして、そう、あなた様の優美という
お宝が、お待ちしている神様に! でもいったい誰のために、
不安に苛まれながら、保っていらっしゃるのですか、あなた様という存在の、
人に知られぬ輝きと、虚しい神秘とを。

H. (エロディアード)

                    私のためです。


エロディアードが呼びかける純粋な星(étoiles)は、乳母にとっては暗く(obscures)、恐ろしい(époouvantes)存在になる。
この視点の違いは、二人の世界観の違いを明確に示している。

乳母の視点からだと、エロディアードは夢を見ている(songer)。
激しく、呵責ない様子で、しかも神に懇願するように。
(songerという動詞の後ろに形容詞implacableが続くのは非文法的だと考えられるが、こうした用法がないわけではない。ここでは、comme suppliantと同格になり、songerの状況を表現すると考えていいだろう。)

エロディアードが懇願する神は、彼女の美が待ち望んでいるのだから、彼女の美を保証してくれる神と考えていいだろう。
乳母もそこまではわかるのだが、しかし、その美の本質を知ることはできない。
だからこそ、乳母にとってエロディアードの輝きは人に知られないものだし、彼女の存在の神秘は、虚しいものなのだ。

そこで、誰のために、あなたは美しいのかと問いかける。
すると、エロディアードは答える。「私のために」と。

この答えは、主体と客体を峻別する乳母には、理解できない。
なぜなら、「私のため」という言葉は、エロディアードの世界観ーー主体である「見る私」と客体である「見られる私」の相互関係の中にしか「私」は存在しないーーに基づいているからである。

モナリザに、あなたは誰のために美しいのかと問いかければ、「私のため」と答えるかも知れない。そして、その美は、世界のためでもある。
モナリザの神秘的な微笑みが、そうした美を体現している。

               N.                        

Triste fleur qui croît seule et n’a pas d’autre émoi
Que son ombre dans l’eau vue avec atonie.

H.
Va, garde ta pitié comme ton ironie.

          N. (乳母)

悲しい花、たった一人で育ち、動揺としては、
その影だけ、無気力な様子で、水の中に見える影。

          H.(エロディアード)

わかりました。哀れみも、皮肉も、後に取っておきなさい。

乳母はエロディアードを理解できない。そして、彼女の言葉は、エロディアードにとっては、哀れみとか嫌みの言葉にしか聞こえない。
そのことは、atonie(無気力)とironie(皮肉)が韻を踏んでいることから、音としても表現されている。

しかし、それにもかかわらず、乳母の言葉は、神秘的な「美」を直感的に言い当てている。

そのポイントになる言葉は、「動揺(émoi)」。
この言葉は、エロディアードが乳母に投げかけた言葉の中で、すでに使われていた。

« […] conte-moi
Quel sûr démon te jette en ce sinistre émoi »
                      言ってみて、
どんなに確かな悪魔が、お前を、この不吉な動揺に投げ込んだのか。

Émoiはmoiを含み、「私」とは、水の中に見える影に過ぎない。
その水は、鏡のように、一本の花を映し出す。
水面にほとんど何も動き(émoi=動揺)がなければ、その映像も動かず、無気力(atonie)に見える。

モナリザに激しい動きを感じるだろうか。
彼女の最大の魅力が、口元に浮かんだ僅かな笑みだとしたら、乳母の言葉は、美の本質を突いている。
その上、« Triste fleur »で始まる2詩節自体、非常に美しい。

          N.

Toutefois expliquez : oh ! non, naïve enfant,
Décroîtra, quelque jour, ce dédain triomphant.

          H.

Mais qui me toucherait, des lions respectée ?
Du reste, je ne veux rien d’humain et, sculptée,
Si tu me vois les yeux perdus au paradis,
C’est quand je me souviens de ton lait bu jadis.

           N.

Victime lamentable à son destin offerte !

           N. (乳母)

では、教えてください。いいえ! うぶなお子様、
衰えていくでしょう、いつか、そのような勝ち誇った軽蔑は。

          H.(エロディアード)

いいや、誰が私に触れるでしょう、ライオンたちさえ敬った私に。
その上、私は人間的なものは何も望みません。彫刻のように彫り込まれた、
私を、乳母様は見るのです、天国に目を奪われて、
その時、私は思い出しているのです、かつて飲んだ乳母様の乳を。

           N. (乳母)

自らの運命に捧げられた、哀れな犠牲者!

乳母は謎を説明して欲しいと口にするが、しかし、思い直し、エロディアードに対する保護者のような言葉を口にする。うぶな子供(naïeve enfant)という表現が、そのことを端的に示している。

その乳母の姿勢に反発するかのように、エロディアードの方は自らの尊厳を主張する。そして、その時には、乳母の世界観に基づた反論になっている。
つまり、人間的な次元と天(イデア)的な次元の区別をする世界観。
実在とその反映の区別する世界観と言い換えてもいい。

実際、彼女は人間的なものは何も望まないといい、自らを彫刻に見立てる。
彫刻とは、理想(イデア)の表現であり、人間の上位に位置する。
ミロのヴィーナスは、どのような人間の女性よりも美しい。

ライオンたちに尊重され(respectée des lions)とか、天に目を向け(les yeux perdus au paradis)という表現が、地上を越えた存在を指し示している。

そして、最後に、乳母の乳を思い出す時だと付け加え、二元論的な思考が、現在のエロディアードの思考ではないことを明白にする。

そうした姿は、乳母にとっては、運命の犠牲者でしかない。

この乳母の哀れみの言葉に対して、エロディアードは21詩行に及ぶ長さの返答をする。





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