マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 7/7

松明に火を付けるようにという命令に対して、乳母は「今すぐにですか?」と尋ねる。
その返事を聞き、エロディアードは、「お別れです(Adieu)」と一言。
その後、乳母の存在は忘れられ、鏡に映る自分の唇との対話になる。

N.    

 Maintenant ?

H.

                    Adieu.
                Vous mentez, ô fleur nue
De mes lèvres !
            J’attends une chose inconnue
Ou, peut-être, ignorant le mystère et vos cris,
Jetez-vous les sanglots suprêmes et meurtris 
D’une enfance sentant parmi les rêveries
Se séparer enfin ses froides pierreries.

        N. (乳母)

今すぐに?

        H. (エロディアード)

     お別れです。
           あなたは偽りを申されました。裸体の花よ、
私の口びるの!
       私は、未知なるものを待っています。
言い換えれば、おそらく、神秘もあなた自身の叫びも無視しして、
あなたは、崇高であり傷ついてもいるすすり泣きを投げかるのです、
生まれ出た幼児のすすり泣きを。その子は、夢想の中で、感じるのです、
とうとう、ばらばらになるのを、自らの冷たい宝石が。

Picasso, Portrait de Dora Maar

「私」の唇(mes lèvres)は、「私」からは見えない。もし見えるとすれば、それは鏡に映った「私」の唇。

では、唇の花(fleur de mes lèvres)とは何か?
しかも、その花は、裸(nue)だとされる。
そして、その花は噓をつく(vous mentez)。

さらに、噓をつくに関して、「私は未知なるものを待つ」というエロディアードの言葉の後、言い換えれば(Ou)という表現を介して、「すすり泣きを投げかける(Jetez-vous les sanglots)」という言葉によって、より具体的に説明が加えられる。

すすり泣くのは、une enfance。
この言葉は、青年、老人などと対比して幼年期を意味することから出発し、子供たちを集合的な意味で示すこともあれば、物事の始まりを意味することもある。
参考としてつけた訳文では、始まりと子供を含め、生まれ出た子供とした。ただし、この子供は決して一人の子どもという意味ではない。

最期に置かれた冷たい宝石には、彼/彼女のという所有形容詞が付けられているので、その子供(enfance)のものだということがわかる。
とすれば、夢想の中でばらばらになるのを感じる宝石とは、涙の粒のことだろう。

「エロディアード 舞台」を構成する134行の詩句を読み通して、この最期の6行行の詩句で代表されるように、何を意味しているのか、理解するのが大変に難しい。そのために、読解のために、非常に大きな集中力が必要となる。
マラルメの詩句は、読者の精神の緊張を強いると言っていいだろう。

Erik Desmazieres, Bibliothèque de Babel de Borges

そのことに対して、マラルメは意識的だったはず。
なぜなら、彼は、現実と言語の関係を問い直し、言葉を掘り進めることで、「虚無(le Néant)」に出会ったのだから。
そのことを、ここでは、「現実が実在し、言語は現実を再現する」という2元論的思考の問い直しと捉えた。
マラルメが夢想し、構想した詩的言語は、現実に従属するのではなく、現実との相互作用の中で、新たな意味を生み出すものだった。
一回一回が新たな生成であり、読者はこれまでの慣例に則って、詩句が指し示す現実(歴史、神話)を読み取るのではない。
詩句の理解の困難さは、まさに、そうしたマラルメの詩に対する考え方に由来する。

言葉が現実を指し示し、これまでの意味の再現を求めないために、詩句の解釈には大きな自由が与えられることになる。

今からここで提示するのは、自由を許された意味の一つにすぎない。

エロディアードが待っている未知なるものとは、新しい詩、さらに言えば、新しい美だと考えることができる。
マラルメが目指しているのは、古代のミロのヴィーナスの美でも、中世・ルネサンスのモナリザの美でもない。彼の時代の美の模索なのだ。
そして、鏡の前のエロディアードは、その美を体現することを望んでいる。
とすれば、「私の唇の花」とは、彼女の言葉であり、「エロディアード 舞台」の詩句だということになる。

それが裸だという理由は、「鏡、冷たい水(Miroir / Eau froide)」で始まる詩句の中ですでに暗示されている。

Mais, horreur ! des soirs, dans ta sévère fontaine,
J’ai de mon rêve épars connu la nudité ! 

でも、何と恐ろしいこと!幾度もの夜、お前の厳格な泉の中で、
私は、脈絡のない夢の、むき出しの姿を知ったのです!

William Turner, Norham Castle Sunrise

私の夢(mon rêve)の裸体(la nudité)という表現に関しては、この詩句が出てきた時点で、一つの解釈を提示した。
現実と夢を峻別する2元論に立つときには、夢は現実を裏切り、失望をもたらす。
それに対して、現実と夢は相互関係にあり、そのことが夢の裸(la nudité)、つまり、むき出しの姿という言葉で表現されたと考えられる。
https://bohemegalante.com/2020/04/22/mallarme-herodiade-scene-4/3/

花が噓をつくという意味は、一般的な視点からすると、現実に根拠を持たない言葉(詩的言語)は、偽りであり、フィクションだということになる。

そのフィクションを、エロディアードは、すすり泣き(les sanglots)と言い換え、より具体的に描いていく。

花が無視する神秘とは、表現された言葉の奥に隠された現実があるということ。
花の叫びとは、言葉の指示対象とされるものを声高に言い立てること。

すすり泣きは、生まれたばかりの子ども(enfance)のすすり泣き。叫び声と対照的な声。
子どもとは、表現される度に新しく生まれる詩句のことと考えたい。あるいは、マラルメが考える詩的言語そのもの。
現実の子どもではなく、常に新たな存在という意味での子供。
とすれば、夢想の中でばらばらになる宝石は、詩句を形成する詩の言葉たちだということになる。

klimt-water-serpents-ii, détail

その言葉たち(宝石たち)は、傷んでいる(meurtris)と同時に、崇高なもの(suprême)でもある。
エロディアードの最期の言葉という意味も、suprêmeという形容詞には含まれている。

その詩句(宝石)が冷たいのは、マラルメが、知的な作業を通して、完璧な構築物として詩を形作るところから来ている。
もし情熱やインスピレーションによって詩を創作のであれば、詩句は熱く燃えたものになるかもしれない。
しかし、マラルメは、「エロディアード 舞台」の中で、何度も冷たさに言及し、詩句を冷たいものに保ってきた。
従って、「冷たい宝石」とは、この詩を構成する全ての言葉に他ならない。
このように最期の詩句を読み解くと、エロディアードの言葉は、自己言及したものであることがわかってくる。

彼女は、乳母に向かって、「私、美しい(Suis-je belle ?)」と尋ねた。
その言葉は、読者にも向けられている。
私たち読者は、「エロディアード 舞台」から、「私の冷たい宝石は美しい?」と問いかけられている。

« Tu vis ! ou vois-je ici l’ombre d’une princesse ?
[…]
Se séparer enfin ses froides pierreries. »

これらの詩句の美を感じることができれば、私たちはエロディアードが待つ「未知なるもの(une chose inconnue)」に出会ったことになる。

最期のもう一度、詩全体の朗読を聞いてみよう。
いくつかの美しい詩句を耳から捉えることができるだろう。

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