浮世絵への道 étapes vers le Ukiyo-é 

江戸時代を代表する浮世絵が17世紀の後半に描かれるようになるまでには、室町時代後半からの絵画の伝統があった。
その流れを辿ってみると、平安時代に確立した大和絵と、鎌倉時代以降に大陸から移入された漢画が融合され、新しい時代の美意識を生み出していく様子を見ることができる。

地獄草紙 東博本 雨炎火石

「うき世」とは、元来は、「憂世」と記され、日々の生活の過酷さを表す言葉だった。
来世に極楽「浄土」に行くことが理想であり、この世は「穢土(えど)」であり、厭わしく、憂うべき場所。

そうした現実感は、地獄絵等によって表現されている。
地獄の絵とされているが、実際には、現実の過酷さの実感を伝えるものだったと考えられる。

その「憂世」が「浮世」に変わる。
現実の厳しさは変わらない。しかし、束の間の一生だからこそ、昨日の苦しさを忘れ、明日の労苦を思い煩わず、今日この時を、浮き浮きと楽しく生きようと考える。
最先端をいくファッションを楽しみ、最新の話題や風俗を享受する。
そうした時には、官能性を隠すことなく、悪所と言われた遊里と芝居町を住み処とする美女や役者たちをモデルにして、美人画や役者絵が描かれる。

浮世絵は、現実を「浮世」と思い定めた時代精神を表現する絵画なのだ。

景物から人物へ

大和絵の題材となるのは、四季の移り変わり、1年12カ月の行事や風物、和歌で詠われた名所等などだった。
こうした景物画は、風景の情緒や土地のあり様に焦点が当てられていた。

ところが、室町時代の後期になると、景物画の伝統に従いながら、人々の営みにも注意が払われるようになった。
その理由は、室町時代における文化の大衆化にあったと考えられる。
それまでは都の貴族や公家、幕府の武家、寺社の僧侶たちだけに向けられていた絵画や演劇(能)が、町人層にまで対象を広げていく。
そうした中で、絵画の中には、上層階級の人間だけではなく、一般の庶民たちの姿も描かれるようになった。
その姿は、地獄図の中のような苦しみに満ちたものではなく、束の間の今を精一杯楽しむといったものであり、その時その時の風俗が反映していることになる。

16世紀後半に描かれた、狩野永徳作とされる「洛中洛外図屏風」。

狩野永徳、洛中洛外図屏風(左)

京都の市内と市外を俯瞰的に捉えたこの絵は、神社仏閣、武家屋敷、庶民の住居だけではなく、2800人を超える人々が描かれている。
しかも、ただ描かれるだけではなく、豆粒のように小さい人々も生活感に溢れ、生き生きとしている。

狩野永徳、洛中洛外図(部分)


同じく16世紀後半に描かれた狩野秀頼の「高雄観楓(たかおかんぷう)図」。

狩野秀頼、高雄観楓図

大和絵の四季景物図の伝統に基づいた作品で、ここに見られるのは、秋と冬の風景。名所が描かれ、名所絵としての側面もある。

左の上には愛宕山。その一帯は白い雪に覆われ、白鷺が飛び、冬の景色であることがわかる。
右の上にあるのは、神護寺。回りには、紅葉と雁が配されている。
画面の前景には清滝川が流れ、紅葉を楽しむ人々の姿が見える。
樹木や岩、人物の描き方には漢画(山水画)的でもあり、和漢折衷の時代を反映している。
https://bohemegalante.com/2020/09/08/unification-yamatoe-avis/

ここで特に注目したいのは、紅葉を楽しむ人々。
彼等にとって、この束の間の時は、憂世ではなく、浮世だと感じられたに違いない。

こうした浮世観を支える感受性は、室町時代に流行した連歌を通して、理解することができる。

連歌から見る浮世の感性

連歌は、一人の作者ではなく、複数の作者が集まり、和歌の上の句を一人が作ると、それに続く下の句を別の人が作り、それを続けて一つの作品として仕上げる遊び。
平安時代からすでに行われていたが、14世紀には、貴族だけではなく、武士や僧侶、そして町人階級にも広まったと言われている。

連歌のテーマは和歌と同じだが、複数の作者が次々に句を続けていくため、一貫性はなく、思いもよらない句が継がれ、意外性が人を驚かせるところに妙味がある。

連歌の理論書を書いた二条良基は、『筑波問答』で、次のように述べている。

連歌は前念後念をつがず。又盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず。昨日と思えば今日に過ぎ、春と思えば秋になり、花(桜)と思えば紅葉に移ろう。

ここで「浮世」という表現が使われていることに注目したい。
連歌で前の句の後に、別の作者が後の句を繋ぐように、時は刻々と過ぎ去っていく。
その様子は、移りゆく浮世を生きる人々の生と対応する。
すでに過ぎ去った昨日は忘れ、明日のことは思い煩わず、今の時のみを享受する。
その際には、平安朝的な優美さは横に置き、飲食や官能的な享楽を楽しみ、それに対応する生々しい表現も使い、滑稽さと陽気さを生み出す。
連歌はそのようにして、大衆に浸透し、流行した。

ところで、民衆に働きかけをした仏教は、現世での生き方として儒教道徳を説いた。その一方で、精神性としては、禅的な思考の下、束の間に過ぎ去るこの世の一切を夢幻的で儚いものと悟り、「天然自性のままに」生きるよう教えた。

享楽的な遊びに没頭する連歌的感性は、儒教道徳とは相容れない。しかし、この世の儚さを受け入れ、虚しさを前提とした上で、ありのままの今を受け入れるという点では、仏教の教えと並行関係にあると考えることもできる。
日本的な感性にとって、時間は常に継起的に連続し、次々に連なりながら消え去っていく。その中で、唯一の現実は「今」でしかなく、人々の願いは、来世の浄土ではなく、日常的な「今・ここ」での幸福を、たとえ一瞬の間であっても、得ることだった。

苦しい現実の中で、明日がどうなろうと、とにかく今だけは愁いを忘れていたい。その時、浮世がこの世の浄土となる。
そんな人々の思いが、風俗画の中に描かれた人々の切なる願いだったのではないだろうか。

遊楽図

ここでは、景物画の中心が季節や名所から、生を楽しむ人間になっていく様子を見ていこう。
人々のいる場面は、屋外から室内へと移行していく。

最初に見る野外遊楽図は、狩野長信の「花下遊楽図」。

狩野長信、花下遊楽図

名所絵のように場所が特定されるのではなく、どこかの桜の下で花見を楽しんでいる人々の姿が、生き生きと描かれている。

先に見た「高雄観楓図」と比べると、17世紀に描かれた「花下遊楽図」では、建物や木々に対して、人物の大きさが随分と違うことが一目でわかる。
絵の主役が、風景や建物から人物に移ってきた証拠である。

相応寺の「遊楽図屏風」では、野外と室内の遊興が描かれている。

遊楽図屏風(相応寺屏風)

屋外では、能が演じられている舞台の小屋、その門前の茶屋、見せ物小屋、水辺における野外の宴などが描かれている。
もう一方には、遊里と思われる数寄屋風の二階建の邸宅の中での様々な遊びを中心に、蒸風呂や舟遊び等が見られる。
少し近くによって様子を見ると、日常の苦しい生活から解放されたかのような、人々の自由で喜びに溢れる姿が見えてくる。

「彦根屏風」になると、人物が室内に配置され、当世風の風俗が絵のテーマになっていることがわかる。

彦根屏風

室内の装飾としては山水屏風が一つあるだけで、後は一面金色に塗られている。
人々は、繊細な筆遣いで顔の表情や着物が丹念に描かれ、三味線を引いたり、双六をしたり、恋文を渡したりといった様子が、当時の風俗として生き生きと再現している。

二つの悪所:遊里と芝居町

「彦根屏風」の部屋は遊里の一室であり、「遊楽図屏風」でも遊里が描かれていた。
当時の人々が、現実生活の苦しみを忘れて享楽に浸ることができるのは、悪所と呼ばれた二つの場所が中心だった。
その一つは遊郭。もう一つは芝居小屋。

そこでは、封建的な身分制度や社会的な規範が無効になり、逆接的ではあるが、地上における束の間の「浄土」だと考えることもできる。
別の言い方をするならば、「憂世」に対する「浮世」。
現実の秩序は消滅し、全ての束縛から解放され、情念を遮ることなく発散し、昨日も明日も忘れて今だけを十全に享受する。
そうした非日常的な場が、悪所と見なされる遊里と芝居町だった。

京都の街を描けば、当然、遊里も芝居小屋も描かれることになる。「洛中洛外図屏風(舟木本)」を見てみよう。

ここにも、束の間の間だけでも現世を楽しむ人々の姿が描かれている。その際には、どうしても、官能性が大きな場所を占めることになる。

悪所の典型は、1603年に出雲の阿国(おくに)によって始められた「歌舞伎踊り」の舞台だろう。
阿国の歌舞伎踊りは、男装をした阿国と、女装したお国の夫がきわどく絡み合うもので、観客はその倒錯性とエロティシスムに大喜びしたという。最後には、全ての役者と観客が入り乱れて踊ることで、大団円となった。
その様子は、17世紀初めに描かれた「阿国歌舞伎図屏風」に収められている。

阿国歌舞伎図屏風

場所は北野神社の境内。本来は能舞台であったところを借用し、阿国の代表的な演目「茶屋遊び」が演じられている。
舞台の上では、男装の阿国が、刀を肩にかけ、「かぶき者」を演じている。彼女の前には、「茶屋のかか」を演じる女装をした男が座り、後ろには、床机をかつぐ頬かむりの道化役が立っている。
『当代記』には、「異なる男のまねをして、刀、脇差、衣裳以下、殊異相。彼男、茶屋の女と戯る体」と記されている。

阿国の成功を受けて、京都の六条三筋町の遊女たちを始め、多くの集団が歌舞伎踊りをするようになった。
「四条河原図屏風」は、遊女歌舞伎がいかに人気を博したかを垣間見させてくれる。

四条河原図屏風

画面中央に鴨川が流れ、左隻と右隻それぞれに舞台が設けられているが、踊るのは、六条三筋町の遊女たち。周囲の賑わいが、女歌舞伎の流行を示している。

その流行は、風俗の乱れの証でもあり、女歌舞伎は、1629年に、幕府によって禁止される。
その後、少年に女装をさせて舞い踊る若衆歌舞伎が流行するが、それもやはり売りは「色」であり、風紀や治安を乱すものとして禁止された。

幕府による禁止は、遊郭だけではなく、芝居町が「悪所」の典型であったことを示している。
それはまた、「悪所」が、儒教的な道徳と階級制度によって秩序を保つ封建社会のただ中で、制度から解放され、束の間の自由の中で欲望をありのままに解放することができる「浮世」であり、逆説的な意味での「浄土」だった証でもある。

その「浮世」で中心になるのは、景物や名所ではなく、人間に他ならない。

寛文美人図から浮世絵へ

もちろん、遊女たちの生は重々しく、抑圧されたものだった。その点は前提にした上で、一般の民衆たちの視点から見たとき、「悪所」とは、日常生活では制御しなければならない情念や欲望を解放することのできる場所であり、束の間の「浮世」だった。

そこでは、「色」だけではなく、自由な風俗も許される。
例えば、歌舞伎とは傾きを意味した。そして、傾いた者は、異様な格好、つまり最新のファッションで身を纏い、町を闊歩する、常識外れの無頼の徒が「歌舞伎者」と呼ばれた。
彼等は外れ者ではあったが、他方では、最新の流行を生み出すインフルエンサーでもあった。

本多平八郎と千姫の恋物語の一場面を描いたとされる「風俗画屏風」では、背景は一色に塗りつぶされ、人物に焦点が当たっている。

風俗画屏風(本多平八郎姿絵)

左手に描かれている若衆は、黒地の小袖を着て、片手に金扇を垂らす、「かぶき者」特有のポーズだという。
右手には、侍女に手紙を読ませている女性を中心に4人の女性が描かれ、中心の女性の葵紋を散らした鹿の子絞りの小袖を始め、全ての人物の衣裳や姿が美しい。

「湯女(ゆな)図」では、寛永年間(1624年~1645年)に流行した湯屋で、客の垢を流したり、酒食の相手をした湯女たちが描かれている。

湯女図

彼女たちの顔は類型化されていて、まだ一人一人の個性を持っているとはいえない。しかし、堂々と闊歩する様子は、退廃的であると同時に生命感に溢れ、刹那的な感覚に生きる彼女たちの力強さが感じられる。
それと同時に、彼女たちの着物は様々な意匠が施され、時流の最先端をいくファッションを見せている。

こうして、寛文期(1661年~1673年)に描かれるようになる、一人の美女の絵画への道が開かれていった。

寛文美女図と呼ばれる美人図は、本来は悪所風俗画であり、女性たちの住む環境を背景として描かれていた。
しかし、背景となる状況が徐々に失われ、単独の美人図として見なされるようにもなった。

こうした絵画史の流れの中で、浮世絵が誕生する。
その先頭に立ったのは、菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)。
彼の「見返り美人」は、初期の浮世絵を代表する作品である。

菱川師宣 見返り美人

最新流行の着物と髪型。優雅な風情で振り返ったこの美女は、当時のファッションリーダーだったと言ってもいいだろう。

「美人遊歩図.」でも、「二美人図」でも、一目見れば菱川師宣の作品とわかるほど、彼の美女たちは優雅に洗練された美を表現している。

菱川師宣はしばしば「浮世絵の祖」と呼ばれ、彼の美女図から浮世絵の歴史が始まったと考えられている。

このように、室町時代の後半に描かれるようになった風俗画から浮世絵の誕生までの歴史を辿ると、絵画の焦点が徐々に人間に絞られ、儚く束の間の生の中で「美」を享受しようと願う庶民の心持ちが浮かび上がってくる。

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