
第1詩節で、「私」が見たいと望む「独特な存在(singuliers êtres)」には、矛盾する二つの特質が付与された。
それらは、「老いさらばえている(décrépits)」けれど、「魅力的(charmants)」でもある。
第2詩節から第9詩節にかけては、その存在についての詳細な描写がなされていくのだが、決して「老婆(vieilles)」という言葉が使われない。
もしその単語が使われると、それを受ける代名詞は女性形のellesになる。
しかし、ボードレールは最初に「怪物(monstres)」と呼び、男性単語を使うために、代名詞は男性形のilsが使われ続ける。
そのことで、老婆には女性性が失われているかのような印象が生み出される。
(ilsと書かれていても「彼女たち」としてしまう方がわかりやすいのだが、ボードレールがあえてilsとしていることを考慮し、以下に付す日本語では、代名詞を使う場合には「それら」とする。既訳では、「彼ら」としているものもあるが、それでは老婆の意味が消えてしまう。)
第2ー3詩節のポイントとなるのは、「魂(âmes)」と「謎かけの絵(rébus)」。

Ces monstres disloqués furent jadis des femmes,
Éponine ou Laïs ! Monstres brisés, bossus
Ou tordus, aimons-les ! ce sont encor des âmes.
Sous des jupons troués et sous de froids tissus
Ils rampent, flagellés par les bises iniques,
Frémissant au fracas roulant des omnibus,
Et serrant sur leur flanc, ainsi que des reliques,
Un petit sac brodé de fleurs ou de rébus ;
(朗読は20秒から。)

その不格好な怪物たちは、かつては女だった。
エポニーヌだったかも、ライスだったかもしれない! 折れ曲がり、せむしで、
ねじ曲がった怪物たちを、愛そう! まだ魂を持った人間なのだ。
穴のあいたペチコートをはき、冷たい布の服をまとい、
それらは、這うように歩いている、不公正な風にむち打たれ、
乗合馬車の走る音に身を震わせ、
そして、脇腹の上で、聖遺物でもあるかのように、
小さな手提げ袋を抱きしめる、花や謎々の絵の刺繍が施された手提げ袋を。
ここで、第2節の4行目から始まる詩句は第3節へと続く。
それは伝統的な詩法では認められない詩句のあり方であり、ヴィクトル・ユゴーを中心にしたロマン主義的な詩法に続く試みである。
内容に関しては、まず、老婆たちは「怪物(monstres)」と呼ばれ、しかも、「かつては女だった(furent jadis des femmes)」と言われる。
その際、動詞の時制が直説法単純過去に置かれているので、女だった時代が今とは断絶した過去のことだと見なされていることがわかる。
次に続く二つの固有名詞エポニーヌとライスは、美徳と悪徳の代表として挙げられる。
エポニーヌは、古代ローマ時代、ガリア地方でローマ軍に抵抗した勇者の妻で、勇敢に夫に従ったことで知られている。
ライスは、古代ギリシア時代にしばしば見られた売春婦の名前。
monstresに付けられた3つの形容詞、brisés(折れ曲がり), bossus(せむし)、tordus(ねじ曲がった)は、体が曲がり、醜くなったという外見の描写であると同時に、心が打ちひしがれ(brisé)、精神が少し変になっている(tordu)という意味も含んでいる。
そうした怪物たちを「愛そう(aimons-les)」と、ボードレールは読者に呼びかける。
怪物たちは、醜い外見だが、今でもまだ 「魂(âme)」なのだ。
そこにこそ、醜を美に変える錬金術の秘密が宿っている。
老婆たちの外観は衰え、道を這うように歩いている。彼女たちは産業革命によって都市化が進む社会で、底辺に押しやられた犠牲者であり、「不公正な風(bises iniques)」に打たれて体がますます曲がり、自分たちは決して乗ることができない馬車に轢かれるのではないかと心配しなければならない。

そんな彼女たちの大切にしているものがある。「小さな手提げ袋(un petit sac)」だ。
その袋には、花の刺繍だけではなく、「謎々の絵(rébus)」の刺繍が施されていることもある。
ボードレールは、当時のモード雑誌をわざわざ取り寄せてファッションについて調査し、絵で謎かけをするようなデザインを施された手提げ袋が流行していたことを確かめることまでしている。
大切な「聖遺物、遺品(reliques)」ででもあるかのようにしっかりと握りしめているのは、その袋が老婆たちにとって唯一の大切な品だから。
彼女たちが近づくことのできない階層の女性たちの持ち物なのだ。
第4ー5詩節も、文章が二つの詩節を跨いでいる。
Ils trottent, tout pareils à des marionnettes ;
Se traînent, comme font les animaux blessés,
Ou dansent, sans vouloir danser, pauvres sonnettes
Où se pend un Démon sans pitié ! Tout cassés
Qu’ils sont, ils ont des yeux perçants comme une vrille,
Luisants comme ces trous où l’eau dort dans la nuit ;
Ils ont les yeux divins de la petite fille
Qui s’étonne et qui rit à tout ce qui reluit.
それらは小刻みに歩き回る。操り人形にそっくりだ。
這うように歩くのは、傷を負った動物のよう。
あるいは、踊る。踊りたいわけではない、哀れな風鈴なのだ、
そこで、一人の「悪魔」が首を吊る、無慈悲に! それらは疲れ果てては
いるが、目は、突き刺すように鋭い、錐のよう。
そして、輝く、夜、水が眠る穴のように。
それらは、少女の神聖な目をしている、
輝くもの全てに、驚き、微笑む目。
第4詩節では、老婆たちの体の動きに焦点が当てられ、3つの動詞で描かれる。
「小刻みに歩き回る(trotter)」、「這うように歩く(se traîner)」、「踊る(danser)」。
その三つの動詞を辿って行くと、いつの間にか、這うような動きが踊る動きへと変形していることに気づく。
腰が曲がり、地を這うように歩いていた老婆たちが、ダンスを踊る存在へと、言葉によって変身する。
そして、「七人の老人」の最終節で、「私の魂は、踊った、踊った(mon âme dansait, dansait)」と歌われていたことを思い出すと、老婆が新しい美を生み出すきっかけとして機能することがわかってくる。

老婆たちの踊る姿が「風鈴(sonnettes)」のように見える。風鈴は自らの意志ではなく、風に吹かれて揺れる。老婆たちも、踊ることを望むことなく、踊る。
ボードレールはその風鈴に、「哀れな(pauvres)」という形容詞を付けるだけではなく、「一人の悪魔が首を吊る(se pend un Démon)」という具体的なイメージを付与する。
Démonと大文字で始まる悪魔は、タロットカードの12番「吊された男(homme pendu)」かもしれない。
11番は「正義」あるいは「力」、13番は「死」。
その間の12番「吊された男」は、逆転する者、つまり反逆者であり、キリストを裏切ったユダとも考えられる。
「七人の老人」にユダの顎髭への言及があったことを思い出すと、「私」の前に突然姿を現した老人の反映かもしれない。
« Tout cassés / Qu’ils sont, »と、第4ー5詩節を跨ぐ文が置かれ、「疲れている(cassés)けれど」という譲歩がなされながら、「目(yeux)」にスポットライトが当てられる。


その目は、「錐(vrille)」のように、「鋭く突き刺す(perçants)」。
目の輝き(Luisants)は、表面でキラキラとするのではなく、空間の奥で静かに光る印象を与える。
そのことは、フランス語の語順のまま、「穴(trous)」を思い浮かべ、その中で、暗闇の中にたたずむ水をイメージすると理解できるだろう。
3つ目の要素として、「少女(la petite fille)」の神聖な目が付け加えられる。彼女は、「何か光るもの(ce qui reluit)」を見ると、「驚き(s’étonne)」の表情を浮かべ、「微笑む(rit)」。
驚きは、ボードレールにとって、美の特性の一つである。
こうした目の輝きを通して、みすぼらしい老婆たちが、美を体現する存在へと変わっていく。
6ー8詩節

— Avez-vous observé que maints cercueils de vieilles
Sont presque aussi petits que celui d’un enfant ?
La Mort savante met dans ces bières pareilles
Un symbole d’un goût bizarre et captivant,
Et lorsque j’entrevois un fantôme débile
Traversant de Paris le fourmillant tableau,
Il me semble toujours que cet être fragile
S’en va tout doucement vers un nouveau berceau ;
À moins que, méditant sur la géométrie,
Je ne cherche, à l’aspect de ces membres discords,
Combien de fois il faut que l’ouvrier varie
La forme de la boîte où l’on met tous ces corps.
あなたは気づいただろうか? 数多くの老婆たちの棺が、
子どもの棺と同じくらい小さなことを。
賢明な「死の女神」は、似通った棺の中に、
一つのシンボルを潜ませる、その味わいは奇異で、心を奪うもの。
そして、私にちらっと見える、一人の弱々しい亡霊が、
蟻のように人々のうごめくパリの情景を横切る、その時、
いつでもこう思える、そのひ弱な存在は、
去って行くのだと、本当に穏やかな足取りで、新しい揺り籠に向かって。
ただし、幾何学に則って考え、
私が探る場合は別だ、バラバラの手足を前にして、
何度、職人が変えなければならないのか、
それら全ての肉体を収める箱の形を。
この3つの詩節では、老婆の棺に焦点が当たる。
老婆は体が縮み、子どもくらい大きさしかないために、棺も小さい。
「あなた(vous)」はそれに気づいたかと問いかけられる「あなた」とは読者であり、その呼びかけによって、詩人は読者を詩の世界に引き入れる。

次に、読者に対し謎かけをする。
「死の女神(la Mort)」が「棺(bières)」の中に入れる「一つのシンボル(un symbole)」とは何か?
ヒントは二つ。
死の女神は「賢明(savante)」。
シンボルの「味わい(goût)」は、「奇異(bizarre)」で、「心を奪う(captivant)」もの。
その謎の答えが明かされないまま、第7詩節に移行する。
まず、「一人の弱々しい亡霊(un fantôme débile)」が出現し、「蟻のように人々のうごめく(fourmillant)」パリの街を横切る姿が「私」の目に入ってくる。
「蟻のように人々のうごめく」という形容詞は、「七人の老人」の冒頭(fourmillante cité)に用いられた単語であり、「パリの亡霊たち(Fantômes parisiens)」の二つの詩を結び付ける役割を果たしている。
「そのひ弱な存在(cet être faible)」が向かうのは、「一つの新しい揺り籠(un nouveau berceau)」。
とすると、その弱々しい存在は、老婆から幼児へと遡っていくことになる。
別の視点からすれば、時間の流れに従い生から死へと向かうのとは反対に、死から生の根源へと向かう。
老いさらばえて、体が縮み、子どものように小さくなる。それは、衰弱の印でもある。
しかし、ボードレールはここで、老婆と子どもの肉体的な大きさを同一視することで、「小さな老婆たち(petites vieilles)」を子どもに変えてしまう。

その逆転は、合理的、科学的思考からすれば、非現実的で、馬鹿げたことと見なされる。
第8詩節で「幾何学(géométrie)」に言及されるが、それは実証主義精神の代表だと考えてもいい。
その幾何学的思考によれば、棺桶は老婆の体の大きさに合わせ、「肉体を治める箱(boîte où l’on met tous ces corps)」の形を変えて作る必要がある。

このように考えると、謎の答えが見えてくるのではないだろうか?
シンボルとは、一人一人の小さな老婆であり、老婆が象徴するのは、老年を幼年に、醜を美に逆転する錬金術。
その変化は、合理主義精神から見ると奇妙であるが、しかしこの上もなく魅力的に違いない。
そして、死の女神の賢明さは、この不可思議な錬金術を認めるところにある。
第1部の最後に置かれた第9詩節では、第5詩節に続き、再び「目(yeux)」に焦点が当てられる。
— Ces yeux sont des puits faits d’un million de larmes,
Des creusets qu’un métal refroidi pailleta…
Ces yeux mystérieux ont d’invincibles charmes
Pour celui que l’austère Infortune allaita !
——— それらの目は、百万の涙でできた井戸、
冷えた金属がかつてピカピカと輝かせた坩堝・・・
それらの神秘的な目は、抗いがたい魅力を持つ、
厳格な「不運の女神」がかつて乳を与えた人間には!

社会の下層に生きる老婆たちが、それまでに数多くの涙を流してきたことは疑いはない。従って、目が「涙の井戸(puits (…) de larmes)」という表現は、現実的であり、誰にでも理解できる。
それは「坩堝(creuset)」でもあり、「冷えた金属(un métal refroidi)」が「スパンコールで飾った(pailleta)」とされる。その動詞が直説法単純過去に置かれているので、老婆が「女だった(furent des femmes)」時のことだと思われる。
坩堝にはかつての輝きが今も残っている。
だからこそ、それらの目は「神秘的(mystérieux)」であり、「抗いがたい魅力(d’invincibles charmes)」を持つ。
その「魅力(charmes)」という言葉は、第1詩節と対応し、小さな老婆たちが、「老いさらばえ、魂を魅了する、特別な存在(Des êtres singuliers, décrépits et charmants)」であることを印象付ける。
最後に、ボードレールは、その魅力が発揮されるとしたら、どのような人間に対してなのか明らかにする。
それは、幼い頃、「不運の女神(Infortune)」が「授乳した(allaita)」人間。
ここでも動詞は直説法単純過去であり、老婆たちがまだ女だった時と対応している。
とすると、彼女たちも「不運の女神」に養われていたのだろう。それが現在の惨めな姿の出発点に他ならない。
とすれば、老婆たちと彼女たちを見る「私」は、両者ともに、社会の底辺でうごめく哀れな存在ということになる。
「小さな老婆たち」の第1部で注目に値するのは、視点が現在時に置かれていること。「七人の老人」の視点が過去時に置かれているのと対照的である。
その点においては、『悪の華』の第2版(1861)中で、この二つの詩と同様にヴィクトル・ユゴーに向けた献辞を持つ「白鳥」の美学と近いともいえる。
Le vieux Paris n’est plus (la forme d’une ville
Change plus vite, hélas ! que le cœur d’un mortel) ;
古いパリはもはや存在しない。(町の形は
変わってしまう、ああ! 人の心よりももっと早く。)

ボードレールは、時間の中で変化していく束の間の存在を捉え、永遠の美を生み出そうとした。小さな老婆たちも、その一つの例であることが、詩句を読み進めるにつれてわかってくる。