ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 5/5

愛する者の後を付いて行ったら、最後は声を掛けることになるだろう。実際、「私」は、第4部に至り、vousという代名詞を使い、老婆たちに呼びかけ始める。

ここでは、第4部を構成する6つの詩節を読む前に、英語やフランス語と日本語の違いについて考えておきたい。

英語であれば相手を指す代名詞(二人称)はyouのみ。フランス語であれば、tuとvousのニュアンスはあるが、2つの代名詞しかない。
それに対して、日本語では、相手との関係によって数多く存在する。
あなた、あんた、君、お前、貴様、等々。その他、先生、社長、おばちゃん、お姉さん、等々、仕事の役職や親族関係を示す言葉が、代名詞のように使われるし、そちらの方が自然だろう。

また、それに合わせて、自分の呼び方(一人称)も、私、ぼく、おれ、わし、等、色々とある。子どもに対して、お父さんとかお母さんと言った言葉を、一人称の代名詞のように使うこともある。

このように日本語では、自分と相手との人間関係を直感的に測り、自分や相手を呼ぶ言葉を決め、それに合わせて言葉のレベル全体も調整する。

この点について、『私家版日本語文法』の中で、井上ひさしは、次のように述べている。

私たちは相手との関係をよくよく見定めて、相手をどう呼ぶかを決める。これが[相手に合わせた自分定め]である。次に彼と話をする時は、味方同士となる。コソアドのうち、コレとソレの場を設け、その場にあるもの以外は、すべてアレとドレになる。[相手との共同の縄張り]をこしらえるのである。西洋人のように、[自己を中心に世界を築き、自己をあくまで主張する]ことなどせず、共同の縄張りからあくまでものを言う。別に言えば終始、相手との間(ま)を測り、相手と間を合わせる。

フランス語や英語では、相手との関係に合わせて言葉のレベルが細かなニュアンスを伴って表現されることはそれほどない。自分がどのように感じ、考えるかを中心に表現がなされる。

そのために、私たちはそのニュアンスを読み取り、日本語にする場合には、どのレベルの表現にするか選択しなければならないことになる。

英語を習い始めた頃、youは「あなた」と教えられた覚えがある。しかし、日本語で「あなた」と呼びかける関係は、youとはかなり違っている。
例えば、私の場合、知り合いの女性から「あなた」と言われたことはないが、言われたら不思議な感じがするだろう。

そんなことを思い起こしたのは、「小さな老婆たち」の中で、老婆たちにvousと呼びかけるjeが、どのレベルの言葉遣いをしているのかを考えるきっかけにするためである。
機械的に、「あなた方」あるいは「君たち」と「訳す」のでは、詩句のニュアンスをつかむことはできない。
日本語にする場合、どちらかにせざるを得ない場合が多いが、その選択によって、jeが老婆たちに投げかける視線が異なり、関係性も違ってくる。
また、それに伴い、jeも、私、ぼく、俺など、色々な可能性が考えられる。

フランス語で読む限り、vous – jeのまま理解していけばいいが、日本語にする途端に、解釈の決定を迫られる。文全体の口調も決めなければならない。難しい。。。


(朗読は3分39秒から)

IV

Telles vous cheminez, stoïques et sans plaintes, 
À travers le chaos des vivantes cités, 
Mères au cœur saignant, courtisanes ou saintes, 
Dont autrefois les noms par tous étaient cités.

Vous qui fûtes la grâce ou qui fûtes la gloire, 
Nul ne vous reconnaît ! un ivrogne incivil
Vous insulte en passant d’un amour dérisoire ;
Sur vos talons gambade un enfant lâche et vil.

Honteuses d’exister, ombres ratatinées, 
Peureuses, le dos bas, vous côtoyez les murs ;
Et nul ne vous salue, étranges destinées !
Débris d’humanité pour l’éternité mûrs !

こんな風に、あなた方は歩いています。禁欲的で、嘆くこともありません。
生命感溢れる街の混沌を横切り、
血の滴る心臓を持つ母たちよ、娼婦であったにしても、聖女であったにしても、
かつては、あなた方の名前が、全ての人々によって口にされていました。

かつては、あなた方は優美さであり、栄光でした。
今では、誰一人あなた方だと分かりません! 無作法な酔っ払いは
あなた方を侮辱します、通りがかりに、馬鹿げた愛によって。
あなた方のすぐ後では、飛び跳ねています、卑怯でおぞましい子どもが。

生きているのが恥ずかしく、萎れた影となり、
おどおどし、背中を低くし、壁をつたっています。
誰もあなた方に挨拶することはありません、奇妙な定めの女性たちよ!
人間の残骸です、永遠に摺り切れたままの!

ボードレールは社会の底辺にうごめき、悲惨な状況で生きる老婆たちを、愛のある眼差しで眺める。としたら、乱暴な言葉遣いではなく、敬意と慈しみの籠もった声で語りかけるだろう。
そのような理解から、日本語はあえて敬体にした。

老婆たちのかつての姿を描く際には、« Vous qui fûtes »のように、動詞は直説法単純過去が使われている。つまり、今とは完全に断絶した、物語の中の過去のような時間のことになる。
そうした「過去においては(autrefois )」、「全ての人々が彼女たちの名前を引用していたし(les noms par tous étaient cités)」(直説法半過去)、彼女たちは優美さ(grâce)そのものであり、栄光(gloire)に輝いていた。

しかし、今では、もう昔の面影は全く残っていない。
「酔っ払い(ivrogne)」が、売春婦に声をかけるように、通りすがりに声を掛ける。
子どもは、老婆たちが弱いとわかっているので、「卑怯(lâche)」で「おぞましい(vil)」振る舞いをし、「彼女たちのすぐ後ろで(sur vos talons)」、「ぴょんぴょんと跳びはね(gambade)」、嫌がらせをする。(ボードレールは子どもを天使のような存在とは考えない、リアルな視線を持っている。『小さな王国』の谷崎潤一郎と同じ視線。)

第3詩節では、残酷な描写がより激しいものとなる。
詩人は老婆たちを、「生きているのが恥ずかしい(Honteuses d’exister)」存在と呼び、「人間の残骸(Débris d’humanité)」であり、「永遠に(pour l’éternité)」、「使い古され、摺り切れた(mûrs)」存在とまで言う。
彼女たちは人間ですらなく、「影(ombres)」にすぎない。小さな体をさらに縮め、壁をつたい、とぼとぼと歩いている。

こうした詩句を読むと、ボードレールが老婆たちをひどく蔑んでいるように思われるかもしれない。しかし、第1詩節でまったく別の視点を記していたことを思い出す必要がある。

老婆たちは、「禁欲的(stoïques)」で、自分たちの境遇を「嘆くこともない( sans plaintes)」。
彼女たちの「心臓(cœur)」からは「血が滴り(saignant)」、社会の底辺を共に生きる人々の「母(mères)」として生きている。
母なる老婆たちがいるからこそ、「混沌(chaos)」とした「街(cités)」が、「生命感に溢れ(vivantes)」ている。

とすれば、老婆たちは、「英雄的(héroïque)」な存在に他ならない。
そして、彼女たちが現実の中で惨めで悲惨であればあるほど、英雄性は強くなる。


第4-6詩節になると、彼女たちを見る« je »に焦点が当てられる。
« je »を日本語にするのはとりわけ難しい選択だが、老婆たちを目にして詩人が自分のことを指す言葉として、あえて「ぼく」を選択してみたい。

Mais moi, moi qui de loin tendrement vous surveille, 
L’œil inquiet, fixé sur vos pas incertains, 
Tout comme si j’étais votre père, ô merveille !
Je goûte à votre insu des plaisirs clandestins :

Je vois s’épanouir vos passions novices ;
Sombres ou lumineux, je vis vos jours perdus ;
Mon cœur multiplié jouit de tous vos vices !
Mon âme resplendit de toutes vos vertus !

Ruines ! ma famille ! ô cerveaux congénères !
Je vous fais chaque soir un solennel adieu !
Où serez-vous demain, Èves octogénaires, 
Sur qui pèse la griffe effroyable de Dieu ?

でも、ぼく、ぼくは、遠くから、愛情を込めて、あなた方を見守っています、
不安そうな目で、あなた方のおぼつかない足どりをじっと見つめています、
あなた方の父親のようにです。ああ、何という奇跡!
ぼくは、あなた方の知らないうちに、秘密の喜びを味わっています。

ぼくには見えます、あなた方の初々しい情熱が花開くのが。
暗くても、輝いていても、ぼくは生きます、あなた方の失われた日々を。
ぼくの心臓は倍増し、あなた方のあらゆる悪徳を楽しみます!
ぼくの魂は、あなた方のあらゆる美徳で輝きます!

廃墟たち! ぼくの家族! おお、同じ生まれの脳髄たち!
ぼくはあなた方に、毎晩、厳かな別れを告げます!
あなた方は明日どこにいるのでしょう? 80歳のイヴたちよ、
彼女たちの足にのしかかるのは、神の恐ろしい爪。

第4詩節において、ある一つの転換が起こる。
「ぼく」は、「遠くから(de loin)」、老婆たちを見守っている。つまり両者の間には距離がある。
しかし、「愛情を持って(tendrement)」を持って見つめている間に、いつしか心理的な距離が縮まる。「ぼく」の視線は父性的になり、「あたかも父であるかのように(Tout comme si j’étais votre père)」感じ始める。
「ああ、何という奇跡!」という叫びは、その逆転を指している。

また、その逆転は、老婆たちと「ぼく」が一つの家族であり、同じ血を共有していることにもつながる。最後の詩節の1行目で使われる「ぼくの家族(ma famille)」、「同じ生まれの(congénères)」という言葉がその確証となる。
そして、そのことから、ぼくが味わう「秘密の喜び」が何かがわかってくる。
その喜びとは、「ぼく」と老婆たちが一つの存在として繋がっているという確信なのだ。

それは「自他の一体化」ともいえ、散文詩「群衆(Les Foules)」において、街並みを放浪する詩人の特権として記されている。

多人数、孤独。活動的で肥沃な詩人にとっては、同等で交換可能な言葉。(中略)
詩人は、その比類なき特権を享受する。思いのままに、自分自身であることも、他人であることもできる。さまよえる魂たちが肉体を探すように、詩人は、望む時に、それぞれの人の中に入り込む。

散文詩の中でこのように説明される詩人の「一体化」能力が、「小さな老婆たち」の中では、「ぼく」と老婆たちとの同族化によって、具体的に描かれている。

「ぼく」は、「あなた方の失われた日々(vos jours perdus)」を生き、「あなた方の悪徳(vos vices)」を楽しみ、「あなた方の美徳( vos vertus)」で輝く。
その際、ぼくの心臓が「倍増している(multiplié)」のは、都市を孤独に散歩する詩人が孤独でありながら、群衆に一体化して「多人数(multitude)」になることを前提にしているのだと考えられる。

その一体化の中では、年老いた老婆たちの「情熱(passions)」はすでに存在しないと考えられるかもしれないが、「ぼく」が生き直すことで刷新され、「初々しい(novices)」なものになる。
だからこそ、「あなた方の初々しい情熱(vos passions novices)」が「花開く(s’épanouir)」姿が、ぼくの目に見えるのである。

そして、夜が更ける頃、「ぼく」は老婆たちに「別れ(adieu)」を告げる。明日もまた再びどこかで出会うことを期待して。

最後に詩人は、小さな老婆たちがどのような存在なのか、読者に印象付ける。
彼女たちは、「80歳(octogénaires)」になった「イヴたち(Èves)」なのだ。

イヴは神の禁止に反して、知恵の木の実をもぎとり、楽園を追放された。人類の悪を引き起こした罪深き存在であり、永遠の世界から時間の流れる儚い世界へと追放された。
彼女の上に重くのしかかる「恐ろしい神の爪(griffe effroyable de Dieu)」は、イヴが犯した原罪を咎める印に他ならない。


老婆たちは19世紀後半の市民社会から排除され、あてもなく彷徨う哀れな存在。としたら、彼女たちと同類の「ぼく」も、イヴたちの一人であり、断罪され、街の中を日々彷徨い歩くことを運命付けられていることになる。

思慮深く孤独な散歩者は、この総合的な一体化から独特な陶酔を引き出す。彼は、群衆と容易に結び付き、熱を帯びた歓喜を知る。(中略)孤独な散歩者は、状況が提示する全ての職業、全ての喜び、全ての悲惨を、我が物として取り込む。
一般に愛と名付けられるものは、えも言われぬ酒宴や聖なる売春に比較すれば、非常に小さく、限定的で、弱々しい。その魂が、詩として、慈愛として、自らを全て与えるのは、さっと姿を現す予期できぬもの、通り過ぎる見知らぬものにだ。(「群衆」)
https://bohemegalante.com/2021/04/11/baudelaire-les-foules-modernite/

「彼女たちを愛そう(Aimons-les)」の愛するとは、一般的な愛ではなく、彼女たちと自分の中に「同じ血が流れる(congènaires)」と思えるほど陶酔する愛であり、「えも言われぬ酒宴」や「聖なる売春」と表現される愛。

その愛によって、80歳のイヴたちは「美」に変わる。
その時、彼女たちは、「奇異で、心を奪う味わいをもつシンボル(Un symbole d’un goût bizarre et captivant)」(第1部第6詩節)になる。


こうして全ての詩句を検討した後で、もう一度最初から「小さな老婆たち」を読み直してみると、普段は決して美しいと思われないものが、美へと変化していく過程を辿ることができる。

しかも、フランス語の朗読に耳を傾け、文字を追っていけば、ボードレール自身のフランス語の詩句で、その体験を味わうことができる。
その数分の間、私たちは我を忘れ、時間を忘れる。そこにボードレール的「美」が生成する。

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