
告白の最後の部分に至り、愚かな乙女は再び地獄の夫の行動に言及し、その後、彼の言葉をそのまま繰り返す。
« S’il m’expliquait ses tristesses, les comprendrais-je plus que ses railleries ? Il m’attaque, il passe des heures à me faire honte de tout ce qui m’a pu toucher au monde, et s’indigne si je pleure.
« ― Tu vois cet élégant jeune homme, entrant dans la belle et calme maison : il s’appelle Duval, Dufour, Armand, Maurice, que sais-je ? Une femme s’est dévouée à aimer ce méchant idiot : elle est morte, c’est certes une sainte au ciel, à présent. Tu me feras mourir comme il a fait mourir cette femme. C’est notre sort, à nous, cœurs charitables… »
もしあの人があの人の悲しみの数々を説明してくれるとしても、私がそれを理解できるでしょうか、あの人の嘲り以上に? あの人は私を攻撃し、この世で私の琴線に触れる可能性のあるもの全てを、何時間もかけて恥ずかしいと思わせるようします。そして、私が泣くと、腹を立てるのです。
「ーー ほら、あのエレガントな若者、きれいで静かな家に入っていくだろ。名前はデュヴァルか、デュフールか、アルマンか、モーリス、そんな感じかな。一人の女があの無能なアホをどうしようもなく愛した。で、彼女は死んじまった。今じゃ、天国で聖女になってるだろうよ。お前も俺を死なせることになる、あいつが女を死なせたみたいにさ。それが俺たちの運命なんだ、慈悲の心を持った俺たちのな。」
愚かな乙女は地獄の夫に対して「あなたのことはわかっているわ。」と繰り返すが、実際には、彼の悲しみ(ses tristesses)も嘲り(ses railleries)も理解できないことが、自分でもわかっている。
そのために、夫はますます乙女を攻撃し(il m’attaque)、彼女の琴線にふれるような全てのもの(tout ce qui m’a pu toucher au monde,)を馬鹿にし、彼女が泣く(je pleure)と怒り出す(il s’indigne)。
二人の関係は愛と憎しみでどうしようもない状態になっていることが、こうした愚かな乙女の矛盾した言葉を通して浮かび上がってくる。

その関係は、1873年7月に起こったヴェルレールによるランボーへの銃撃直前の、二人の関係を反映していると考えていいだろう。
地獄の夫の言葉はそのことの一つの証拠とも考えられる。
エレガントな若者と彼を愛して死んでいった女性の話は、アレクサンドル・デュマ・フィスの『椿姫』を思わせる。
若者の名前はアルマン・デュヴァル(Armand Duval)、彼を愛した女性マルグリット・ゴーチエは、アルマンのためを考えて身を引き、その後すぐに死んでしまう。
ランボーとヴェルレーヌは1873年の前半、別れと再会を繰り返していたが、5月27日には二人でロンドンに戻って暮らし始めた。
その年の6月に、ロンドンで「椿姫」の芝居が上演された。
二人がその公演を見たのかどうかはわからないが、夫の言葉は、1873年7月10日にヴェルレーヌがランボーに向かい発砲した事件の直前の時期を、あえてランボーが散文詩の中に書き留めていると考えて間違いではないだろう。
Hélas ! il avait des jours où tous les hommes agissant lui paraissaient les jouets de délires grotesques : il riait affreusement, longtemps. ― Puis, il reprenait ses manières de jeune mère, de sœur aimée. S’il était moins sauvage, nous serions sauvés ! Mais sa douceur aussi est mortelle. Je lui suis soumise. ― Ah ! je suis folle !
« Un jour peut-être il disparaîtra merveilleusement ; mais il faut que je sache, s’il doit remonter à un ciel, que je voie un peu l’assomption de mon petit ami ! »
Drôle de ménage !
ああ! あの人には、動いている人間がグロテスクな錯乱のおもちゃみたいに見えることが、何日もありました。そんな時には、おぞましい笑いを長い間続けました。ーー その後はまた、若い母親とか愛された姉妹みたいな様子に戻るのでした! あの人がもう少し乱暴でなければ、私たちは救われるのに! でも、あの人の優しさもすごいんです。私はあの人に服従しています。ーー ああ! 私、愚かなんです!
「いつか、たぶんあの人は魔法みたいに消え去ってしまうでしょう。でも、知らないといけないんです、あの人が天に上ることになれば、私の愛しい人の昇天をちょっとだけ見るのだということを。」
なんと奇妙な夫婦だろう!
愚かな乙女の目には、地獄の夫が完全に矛盾した存在に見える。
ある時には、人間が動いている姿を見て、グロテスクな錯乱(délires grotesques)の操り人形(jouets)のように見える。そのために、おぞましく笑い(il riait affreusement)、乱暴(sauvage)になる。
別の時には、若い母親(jeune mère)とか愛された姉妹(sœur aimée)のような振る舞い(manières)を取り戻し、とても優しい(douceur)。粗暴な時があればあるほど、優しさが強く感じられ、致命的な(mortelle)ものになる。
「私」は、そうした矛盾した行動を取る夫にますます夢中になり、愚か(folle)だとわかっていても、彼に服従(soumise)してしまう。
だから、「私」は、愚かな乙女(vierge folle)なのだ。
最初に記したように、愚かな乙女のエピソードは新約聖書で語られるもので、結婚式の準備にランプを持ちながらオイルを忘れ、そのために神から式場に入ることを拒否された娘たちの話だった。

ランボーはその寓話に基づき、ヴェルレーヌを愚かな乙女に見立て、彼女が二人の破滅的な生活を悔い、神に告白=懺悔するという枠組みを組み立てた。
最後に、愚かな乙女は、地獄の夫が消え去る(il disparaîtra)としたら、それは夫の昇天(assomption)だと思わないといけないと言う。
「椿姫」のマルグリットが死後に天に(au ciel)上り、聖女(une sainte)になると語ったのは、その先例を示すためだった。
結局、二人は別れることになる。今送っている生活が地獄であるとしたら、別れは贖罪になり、魂は救済されるだろう。
それが地獄の夫の予告であり、愚かな乙女もそう思うように導かれていく。
愚かな乙女の告白はそこで終わり、最後に地獄の夫の言葉が記される。
「なんと奇妙な夫婦だろう!(Drôle de ménage)」
この言葉は、地獄の夫が醒めた思いで告白を聞き、愚かな乙女を冷静で皮肉な目で見ていることを示している。
ここまで5回に分けて「錯乱 1 愚かな乙女(Délires I Vierge folle)」を読んできた。

この散文詩の素材と考えられるのは現実のランボーとヴェルレーヌの関係であり、愚かな乙女の告白はランボーに振り回されるヴェルレーヌの複雑な感情を反映していると考えられる。
ヴェルレーヌにとって、ランボーは悪魔のような存在なのだが、時には優しく、地獄のような苦しみを味わったとしても、どうしようもなく彼に惹かれ、ついていくことを望む。
ただし、ランボーは二人の生活を、自らの視点から一人称で語るのではない。
ヴェルレーヌの視点を通し、自らを他者の視点から描くという、屈折した形での自画像にした。
そのことによって、現実との間に距離が生まれ、現実も一つの視点から捉えた現象であり、別の視点からは別の現実(現象)が浮かび上がる可能性があることが示される。
同じ物を見ても、私とあなたでは全く同じには見えず、違った風に見える。そして、見る主体にとっては、自分の見る現象が現実だとみなされる。
そのように考えると、「錯乱 1 愚かな乙女」におけるランボーの試みは、ヴェルレーヌとの生活を素材にしながらも、決してその現実を再構成することではなく、彼の見る現実(現象)を言葉によって創造することだったことがわかってくる。
「錯乱 1 愚かな乙女」に描き出された世界も、現実を再現したコピーではなく、それ自体が一つの現実世界なのだ。そう考える場合には、愚かな乙女はヴェルレーヌ、地獄の夫はランボーと同定せず、一組の夫婦の生々しい打ち明け話として読むこともできる。
さらに、愚かな乙女はランボーの自己意識の一つの側面と考えることもできる。つまり、私の中の他者。
その場合には、地獄の夫と愚かな乙女は一人の人間の中にある二つの意識ということになり、二つの自己意識の葛藤が描かれていると考えることもできる。
そうした多様な視点はどれか一つが正解ということはなく、共存可能である。
従って、私たち読者も、「錯乱 1 愚かな乙女」を読みながら、ランボーとヴェルレーヌのことを考えてもいいし、自分の中に時に生じることのあるなんらかの葛藤を投影してもいい。
多様な読み方をすることで様々な意味が付与され、散文詩がより豊かになる可能性もある。
そんなことを考えながら、もう一度朗読に耳を傾けてみよう。