
38-51行の詩句から構成される詩節において、牧神は、最初、夢の中のニンフたちとの感覚的な接触に思いをはせるが、次にはそれらの思いを振り払い、双子の葦から生まれる音楽の秘法(arcane)について語る。
次の詩節(52-61行)では、音楽についてさらに考察が深められ、空のブドウの房(la grappe vide)から発せされる音楽の中で、陶酔を希求する(avide d’ivresse)牧神の姿が浮かび上がる。
ドビュシーが作曲した「シランスク」を耳にすると、マラルメが求めた陶酔をしばしの間感じることができる。
詩句を読む前に、ほとんど無調で単調とも感じられる単旋律の調べが夢想へと誘うフルートの独奏に耳を傾けてみよう。
まず、38-41の詩句を読んでみよう。
Autre que ce doux rien par leur lèvre ébruité, (38)
Le baiser, qui tout bas des perfides assure,
Mon sein, vierge de preuve, atteste une morsure
Mystérieuse, due à quelque auguste dent ;
彼女たちの唇によって音を立てられたこの甘い虚無、 (38行目)
その口づけは、ひどく小さな音で、不実な女たちの存在を確認する、
それとは違い、おれの胸は、証拠はないが、噛まれた跡を証明する、
ある厳かな歯によってつけられた、神秘的なその噛み跡を。

不実な女たち(des perfides)とは、牧神が夢で見た二人のニンフのこと。
彼女たちの唇(leur lèvre)が音を立てた(ébruité)甘い虚無(ce doux rien)とは、次の行で、口づけ(le baiser)と言い換えられる。
そして、その口づけ(le baiser)が、微かな音で(tout bas)、彼女たちの存在を確かなものだと証明する(assure)する。
ここで問題になるのは、口づけが触覚と関係するではなく、音を立てる(ébruité)や小さな音(tout bas)という言葉によって示されるように聴覚に関係するものとして表現されること。
しかし、実際には、autre queとあるように、口づけではなく、牧神の胸(mon sein)が問題であり、その際には触覚が問題になる。
その胸に、ニンフの存在の証拠(preuve)となる跡はない(vierge de)。しかし、そう言いながらも、噛まれた跡(une morsure)やある厳かな歯(quelque auguste dent)という言葉によって、すでに痕跡の消え去ったニンフとの交わりを暗示する。
胸には何の印もないのに、その胸が噛み傷を証明する(atteste)。だからこそ、その傷は神秘的な(mystérieuse)ものなのだ。
。。。。。
次に、42行目では、口づけに関する夢想を「どうでもいい(bast)!」と追い払い、より本質的な秘法(arcane)へと話を進める。
Mais, bast ! arcane tel élut pour confident (42)
Le jonc vaste et jumeau dont sous l’azur on joue :
Qui, détournant à soi le trouble de la joue, (44)
Rêve, en un long solo, que nous amusions
La beauté d’alentour par des confusions
Fausses entre elle-même et notre chant crédule ;
しかし、それはどうでもいい! こうした秘法が告白をする相手として選んだのは、 (42行目)
巨大な双子の葦だった、蒼穹の空の下で演奏される葦。
葦は、それ自身へと頬の乱れを向けさせ、 (44行目)
長い独創の仲で夢見るのは、おれたちが楽しませたこと、
この辺りの美しさを、混同によって、
その美自体とおれたちの信じやすい歌との偽りの混同によって。

秘法(arcane)とは、例えば非金属から黄金を作り出す錬金術のようなもの。
ここでは、牧神の葦笛の奏でる音楽が、ニンフによって具現化され、特別な力を及ぼす秘術を考えるといいだろう。
葦笛がその魔法の音楽を生み出す。
18行目の詩句を思い出すと、笛には二本の管がついていた。葦(jonc)が双子(jumeau)という表現はそこからの連想であり、夢の二人のニンフがここでは双子の葦になっている。

牧神は葦笛に息を吹き込み、音楽を奏でる。
その時、巨大で(vaste)双子の葦(jonc)は、打ち明け話の相手(confident)とみなされる
牧神ではなく、秘法がその相手を選んだ(élut)と言うのは、牧神が主体的に音楽を奏でるのではなく、むしろ音楽が牧神を動かしていることを暗示する。
葦笛を演奏する(joue)のを牧神ではなく、一般的な人(on)としているのも、そのためだろう。
動詞の時制に注目すると、élutは élireの単純過去。joueは直説法現在。
楽器を選んだのは物語的あるいは神話的な過去の出来事だが、その楽器を演奏するのは「普遍的な現在」のことだと考えられる。
蒼穹の下で(sous l’azur)は、時間の流れる現在よりも、彼方の永遠を思わせる。
。。。。。
44行目はQuiから始まる。
その場合、文法的には疑問代名詞(誰)であるはず。しかし、ここでは、43行目のle jonc(葦)を説明する関係代名詞と考えざるをえない。

43-44行はjoueという同じ言葉で韻を踏み、意味的にも、葦笛を演奏する(joue)ことと、楽器に息を吹き込むために演奏者が頬(joue)を膨らめることが、見事に重ね合わされている。
Le jonc vaste et jumeau dont sous l’azur on joue :
Qui, détournant à soi le trouble de la joue,
頬の乱れ(le trouble)とは、頬が膨らんだり、凹んだりする様子。
そのようにして、葦笛の長い独創(un long solo)が奏でられる。
従って、その演奏は、牧神(=Je)と双子の葦(le jonc jumeau)が一体化して行われるのだといえる。
だからこそ、音楽の効果を夢見るとき、私たちが周囲の美しさを楽しませた(nous amusions la beauté d’alentour)とか、私たちの歌(notre chant)というように、nous、notreという言葉が使われることになる。
繰り返すことになるが、歌=音楽は、葦(jonc)=楽器と頬(joue)=牧神の合作なのだ。
その独奏の中で夢見られる(rêve)内容は、amusionsと動詞が半過去であることから、過去の出来事であることがわかる。
では、独奏によって何が起こったのか?
私たちが周囲の美(nous amusions la beauté d’alentour)を楽しませたのは、美それ自体(elle-même)と私たちの信じやすい歌(notre chant crédule)の間の、偽りの(fausses)混同(confusions)によってだった。
周囲の美とは、葦が生える泉の美しい風景を連想させる。
一方、私たち歌(chant)が信じやすい(crédule)とは、歌の中で再現される風景が、本物の風景ではないにもかかわらず、本物だと無邪気に信じてしまうという意味だろう。
そのために、本物の風景の美と歌で再現された美が混同(confusions)される。それは偽りの(fausses)類似でしかない。
。。。。。
しかし、それだけではなく、48-51行目の詩句では、もう一つの効果が明らかにされる。
Et de faire aussi haut que l’amour se module
Évanouir du songe ordinaire de dos
Ou de flanc pur suivis avec mes regards clos,
Une sonore, vaine et monotone ligne.
そして、(夢見ることは)、愛が様々な調子で歌われるのと同じくらい高く、
消し去らせること、ありきたりの夢、背中か、
あるいは腹を、おれの閉じた目が見つめ続ける夢なのだが、その夢から、
一筋の、響きがよく、空しく、単調な線を。
Et de faire … は、45行目のRêve(夢見る)の内容を示すque以下の節と同格であり、夢見る二つ目の内容を語る。
それを一言で言えば、faire évanouir du songe une ligne(夢から一筋の線を消え去らせること)。
もちろん、これだけではよくわからない。
もう少し詳しく見ていこう。
夢に見るものは、dos(背中)か、flanc pur(純粋な脇腹)。
このブログで何度も繰り返しているように、無冠詞で単数の名詞は、具体的な事象ではなく、概念だけを示すことが多い。
ここでも、songe de dos ou de flancとされており、具体的に誰の体なのか明示されていない。
ただし、その後、背中と腹は、牧人が目を閉ざして(mes regards clos)、追い続けている(suivis)とされる。そのことから、彼が夢で見る二人のニンフの体でだと推測できる。
その夢がごく普通(ordinaire)であるのは、夢は目を閉じて見るものだから。

その夢から消え失せさせるのは、一筋の線。響きがいいということは、目に見える線であるよりも、一つの旋律と考えた方がいいだろう。
それが空しい(vaine)とは、実体のない音であることを示している。
その言葉は、38-39行目で語られた口づけ(le baiser)が、彼女たちの唇によって音を立てられた甘い虚無(ce doux rien)を思い起こさせる。
単調さ(monotone)は、意識がはっきりせず、全てがおぼろげな夢想に相応しい。
そして、その旋律は、 愛が様々な調子で歌われる(l’amour se module)のと同じくらい高く(aussi haut )まで上り、消し去られて(faire évanouir)しまう。
愛が変調して上空に上がっていくというイメージは、プラトン的な愛の神話に基づいているのだろう。
プラトンによれば、愛とは、地上の美を愛することを通して、天上のイデア界へと上昇させるエネルギーのようなものだと考えられる。
それと同じように、葦笛は、夢の中のニンフの肉体を夢見させることから出発し、最後は一つの響きのいい旋律を生み出すことを夢見る。
以上のように、38-51行の詩句で構成された詩節では、感覚的な次元から始まり、音楽生成の秘法へと転調し、葦笛の音楽がもたらす二つの効果について語られてきた。
最後に描き出される一本の線(une ligne)が、葦笛から奏でられる音楽を見事に形象化している。
51行目の後に2行の空白が置かれ、その後、「牧神の午後」の前半部分を締めくくる52-61の詩句が続く。
その詩節では、牧神パンからの追跡を逃れるため葦に姿を変える妖精シランクスに言及され、「牧神の午後」の根底に流れる神話が思い起こされる。
ただし、視点はシランクスではなく、彼女を追いかけるパン=牧神に置かれている。

Tâche donc, instrument des fuites, ô maligne
Syrinx, de refleurir aux lacs où tu m’attends !
Moi, de ma rumeur fier, je vais parler longtemps (54)
Des déesses ; et, par d’idolâtres peintures,
À leur ombre enlever encore des ceintures :
Ainsi, quand des raisins j’ai sucé la clarté, (57)
Pour bannir un regret par ma feinte écarté,
Rieur, j’élève au ciel d’été la grappe vide (59)
Et, soufflant dans ses peaux lumineuses, avide
D’ivresse, jusqu’au soir je regarde au travers.
だからこそ、努めよ、逃走の楽器よ、おお、意地悪な
シランクスよ、再び花開くように、お前がおれを待つ泉で!
おれは、自分の生み出す音に誇りを持ち、語るのだ、長い間、 (54行目)
女神たちのことを。そして、偶像の描かれた絵画を通し、
彼女たちの影から、もう一度、帯を取り去るのだ。
そんな風に、ブドウの光を吸った後、 (57行目)
後悔を追放するため、おれの見せかけの身振りによって遠ざけされた後悔だ、
笑いながら、おれは夏の空へと持ち上げる、空っぽの房を、 (59行目)
そして、光輝く皮の中に息を吹き込み、陶酔を
熱望し、夕方まで、それを透かして見つめる。

オウィディウスの『変身物語』では、牧神パンから追われた森の妖精シランクスは、水辺で捕らえられそうになる。その時、彼女は川の妖精に助けを求め、パンの手が触れた瞬間、沼地の葦に変身する。パンがため息をつく。と、その息が葦の茎の空洞を通り、悲しげな旋律を鳴らす。それが葦笛(パンフルート)の起源となった。
この神話的物語の中では、意地悪なのは牧神パン。だが、マラルメの詩では視点が牧神(faune)に置かれるため、意地悪(maligne)なのはシランクス(Syrinx)だ。
彼女は牧神から逃げ去り、そのために逃走の楽器(instrumen des fuites)と呼ばれる。
そのシランスクに向かい、牧神は、泉で再び花開くように努め(tâche de (…) refleurir aux lacs)、自分を待つように(tu m’attends)(Tâche)と命じる。
従って、52-53行目の詩句は、神話に基づき、葦笛の起源を思い出させると同時に、牧神の側から、葦笛の奏でる音楽の起源を語っていることになる。
。。。。。。
54-61行では、ブドウの空洞の房(la grappe vide : 59行目)を中心として、空洞を通る息吹の作り出す音楽が陶酔(ivresse)をもたらすという物語(フィクション)が語られる。
その中心にいるのはMoi(おれ)、つまり牧神。
ma rumeurは、噂という意味ではなく、はっきりとしない音(bruit sourd)。
逃げ去ろうとして葦に姿を変えた妖精に向けられた声、あるいは牧神の息が吹き込まれた葦から出てくる音を意味するのかもしれない。(リトレ辞典のhumeurの定義の一つには、Bruit qui s’élève tout à coup, et qui a pour cause un accident, un événement imprévuとある。)
従って、牧神がその音にプライドを持つ(fier de ma rumeur)のは当然だといえる。

そして、牧神が葦笛を吹くことで生み出される音楽は、女神たちについて語る(parler des déesses)、つまり彼が追い求めた妖精たちを描き出す。
偶像の描かれた絵画(d’idolâtres peintures)とは、葦笛の音楽が喚起する映像に他ならない。
その映像の中に姿を現す女神あるいは妖精たちは、現実の存在ではなく、音楽によって再現されたものであり、現実の存在の影(leur ombre)と呼ばれる。
牧神は、神話の中で彼女たちの帯を解いたように、音楽の映像の中でも再び帯を解く(enlever encore des ceintures)。
その行為がこれから奏でる音楽を通してなされることは、je vais parler (…) ; enlever des ceintures(これから語り、帯を持ち挙げる)と、allerが使われることではっきりと示される。
。。。。。

57行目からは、葦ではなく、ブドウ(grappe, raisins)が楽器として取り上げられる。
それは、ブドウがワインの原料となり、酔いをもたらすことに由来するからだろう。
そのことで、牧神が酒の神バッカスを暗に連想させる効果があるとも考えられる。
牧神はブドウの光を吸った(j’ai sucé la clarté des raisins)後、空っぽになった房を夏の空に向かって持ち挙げ(j’élève la grappe vide au ciel d’été)、光輝く皮の中に息を吹き入れ(soufflant dans ses peaux lumineuses)、それを透かしてじっと見つめる。(je regarde au travers)。
空の房を空に向かって持ち挙げる理由は、後悔を追放するため(Pour bannir un regret)だと説明される。しかも、その後悔は、牧神の見せかけによって遠ざけられた(écarté par ma feinte)ものだという。
ブドウの光を吸った後、後悔が残るのはなぜか?
その理由は、牧神が、空になったブドウの皮を使い、陶酔(ivresse)を得ようとしていることから推測される。
光を吸っても陶酔が得られなかったのだ。しかし、そこことを気づかないようにした。それが偽りの行動(ma feinte)ということになる。
だからこそ、葦笛を吹くのと同じように、空洞になったブドウの皮を吹き、それを透かし見る。その行為を語る2行の詩句では、行を跨いだ二つの単語にスポットライトが当てられている。
Et (1), soufflant dans ses peaux (5) // lumineuses (4)/, avide (2)
D’ivresse (3)/, jusqu’au soir (3) // je regarde au travers. (6)
意味的に見るとavide d’ivresseとつながるにもかかわらず、d’ivresseは2番目の行の先頭に置かれ、詩法的にはルジェと呼ばれる位置にある。
反対に2行目の詩句を主文とみなすと、avideが前の行に残され、コントル・ルジェの位置に置かれていると考えることもできる。
そのようにして、avideとd‘ivresseがはっきりと浮かび上がる工夫がなされている。
その上、音的には、母音 [ i ]と 子音[ v ]が反復され、しかも前後が入れ替わることで、アソナンス(母音反復)、アリテラシオン(子音反復)、キアスム(交錯配列法)の効果が凝縮され、強い効果を生み出す。
それこそが、空のブドウの房(la grappe vide)のもたらす音楽的、詩的な酔いである。
そのことは、59行目のvideと60行目のavideが [ i ]の音で韻を踏むだけではなく、[ v ]と[ d ]も重なることで、豊かな韻(rime riche)となっていることから、意味的にも、音的にも、理解することができる。
このように読んで来ると、32行目のce doux rien(甘い虚無)から始まり、空のブドウの房(la grappe vide)まで続く牧神の独白が、「無」の根底にした芸術論であることがわかってくる。