マラルメ 牧神の午後 Mallarmé L’après-midi d’un faune 5/6 一と多の戯れ

空のブドウの房に息を吹き込み、そこから立ち上る旋律がもたらす酔いを熱望すると語った後、62行目になると、牧神はニンフたちに、思い出(SOUVENIRS)を再び膨らめようと語り掛ける。

その際、SOUVENIRSという言葉が大文字で書かれる。その大文字は、25行目でシチリア島の岸辺に向けて「CONTEZ(物語ってくれ)」と言ったことを思い出させる。
ここで息を吹き込み膨らめる思い出は、必ずしも現実に起こったことを思い出すのではなく、牧神とシランクスの神話に基づいた物語あるいはフィクションである可能性もある。

そのSOUVENIRSは63行目から92行目まで続くが、3つの部分に分けられる。
最初(63-74)と最後(82-92)は直接話法を示すカッコが使われ、文字はイタリック体に置かれる。その間に置かれた2番目の部分(75-81)は、地の文に戻る。

思い出は、森の中で宝石を思わせる美しい存在を目にすることから始まる。

Ô nymphes, regonflons des SOUVENIRS divers.  (62)
» Mon œil, trouant les joncs, dardait chaque encolure
» Immortelle, qui noie en l’onde sa brûlure
» Avec un cri de rage au ciel de la forêt ; 
» Et le splendide bain de cheveux disparaît
» Dans les clartés et les frissons, ô pierreries !
» J’accours ; quand, à mes pieds, s’entrejoignent (meurtries (68)
» De la langueur goûtée à ce mal d’être deux)
» Des dormeuses parmi leurs seuls bras hazardeux :
» Je les ravis, sans les désenlacer, et vole (71)
» À ce massif, haï par l’ombrage frivole, 
» De roses tarissant tout parfum au soleil,
» Où notre ébat au jour consumé soit pareil.

おお、ニンフたちよ、再び膨らめよう、様々な「思い出」を。 (62行目)
「おれの眼差しは、葦の茂みを穿ち、一つ一つの首筋を射貫いた、
その不死の首筋は、波の中に沈める、焼けた跡を、
森の上の空に向かい、怒りの叫び声を上げながら。
そして、水と溶け合う髪の輝かしい塊が、消え去っていく、
光と震えの中に、おお、宝石よ!
おれは駆け寄る。おれの足元で、絡み合うのは、(傷ついている、(68行目)
二人であるという傷みから味わう倦怠によって、)
眠る女たち、彼女たちの危険をはらむ腕だけが彼女たちを取り込む。
おれはあいつたちを捕まえる、二人を引き離すことなく、そして飛んで行く、 (71行目)
あの茂みへと、気まぐれな木陰に憎まれ、
太陽の下、香り全てを涸らしてしまうバラたちの茂みへと。
そこで、おれたちのお遊びは、燃え尽きた日差しに似たものになる。」

(朗読は4分46秒から)

62-74行で語られる「思い出」は、牧神が葦の中にいる二人のニンフを見つけ、彼女たちを捕らえる様子を語る。

牧神は、ニンフたちの首筋を矢のような視線で穿ち(je (…) dardait chaque encolure)、抱き合って眠る女たち(des dormeuses parmi leurs bras)に駆け寄る(j’accours)。
そして、彼女たちを捕まえ(je les ravis)、バラの茂みまで(à de massif (…) de roses)、飛ぶように(je vole)して、運んでいく。

この出来事を語る時、je dardaitは半過去であるが、j’acours、je ravis、je voleは直説法現在であり、牧神が二人のニンフの方に走り寄り、彼女立ちを捕らえる行為が、読者の目の前に浮かび上がってくる。

次に、それぞれの行為が行われる状況をより詳細に辿ってみよう。

(1)

牧神が葦の茂みでニンフたちを見た時、彼女たちの首すじ(encolure)は不死のもの(immortelle)であるとされ、人間ではなく、不死の神々に近い存在であることが示される。

彼女たちは、牧神の激しい視線に焼かれた傷跡(la brûlure)を水に沈め(noie en l’onde)ながら、森の上に広がる空に向かい(au ciel de la forêt)、怒りの叫び声(Avec un cri de rage)を上げる。
その時、水に浸る彼女たちの輝かしい髪(le splendide bain de cheveux)が、細かく震えながら(les frissons)光(les clartés)を発し、宝石(pierreries)のように美しく見える。

牧神がニンフたちを見たのが過去であるにもかかわらず、こうした状況が直説法現在で描かれるのは、不死のニンフたちの美がいつの時代でも共通する”普遍的な現在”に属するからである。

(2)

牧神が駆け寄り(j’accours)、二人が抱き合う(s’entrejoignent)姿は、直説法現在で語られる。
彼女たちは、時間の経過から逃れた普遍的存在なのだ。

眠るニンフたちは、二人でいることの傷み(ce mal d’être deux)を感じ、そこで味わう(goûtée)倦怠(la langueur)に傷ついている(meurtries)と、カッコに入れて注が施される。

女性が二人でいることの痛みという表現は、サッフォーに代表される女性の同性愛(レスビアン)を暗示すると考える読者が多くいる。
その場合、例えば、ボードレールの『悪の華』初版から削除を命じされた「レスボス」のような詩を思い起こさせることにもなる。
(参照:ボードレール 「レスボス」 1/3 レスビエンヌたちの口づけ

ただし、それとは別の理解の仕方もある。「牧神の午後」では、ニンフは一つの存在であったり、複数に見えたりするが、ここでは、2人であることが傷みあるいは悪(ce mal)とされる。
単数が根源的な状態であり、複数はそこからの派生状態だと考えられ、肉体を伴った具体的な存在になる。そこに傷みが伴う。
こうした「一」と「多」の関係が、「牧神の午後」の本質的な解釈に繋がることは、再び膨らめられる「思い出」の中で徐々に明らかになる。

(3)

牧神がニンフたちを捕まえても(je les ravis)、二人を引き離すことはしない(sans les désenlacer)。
彼女たちは、29行目にあったune blancheur animale(白い動物のようなもの)が変容した姿かもしれず、それが葦笛になる時には、二つの管(tuyaux)の形を取る。

彼女たちが運ばれるのは、バラの茂み(massif de roses)。
それらのバラには太陽の光が当たり、香りがみんな(tout parfum)涸れ果てて(tarissant)いる。
時には気まぐれに木陰(l’ombrage frivole)ができることがあるとしても、陰から憎まれている(haï)ために、いつでもバラを日差しから守り、香りを保たせることはない。

そこで行われる牧神とニンフとの愛の遊戯(notre ébat)は、燃え尽きた日差しに似たもの(soit pareil au jour consumé)になるかもしれない。
ここで動詞êtreが接続法現在(soit)に活用されているのは、実際にそうなっているのではなく、遊びと消耗した日差しが似るという概念を示すため。
バラの茂みは太陽に照らされ、香りを発しないばかりではなく、日差しも消耗してしまう。同様に、そこで行われる行為も無為である可能性がある。

rosesは、7行目のla faute idéale de roses(バラたちの理想化された過ち)という表現の中にすでに出てきていた。
その際には、普通の木々をバラだと見なす錯誤が現実の理想化だとされた。
そこから連想を辿ると、牧神は眠る女たちを理想の存在にすることを望み、バラの茂みに運んでいったとも考えられる。
しかし、ここでは、バラは香りを失い、日差しも燃え尽き、愛の遊戯が喜びをもたらすことはないかもしれない。

こうしたバラの茂みを描く詩句は、[ i ]と[ a ][ ɑ̃ ]の母音反復と、流音の [ l ] と[ r ]が連続によって、音楽的に特徴付けられている。

Je les ravis /, sans les // désenlacer, / et vole
À ce massif /, haï // par l’ombrage frivole, 
De roses / tarissant // tout parfum au soleil,


[ i ] ー ravis – massif – haï – frivole – tarissant ー
[ a ] [ ɑ̃ ] ー ravis – sans – désenlacer – À – massif – haï – l’ombrage – tarissant – parfum
[ r | [ l ]  ー les – ravis – les – désenlacer – vole – l’ombrage – frivole – roses – tarissant – parfum – soleil


75-81行ではカッコが外され、地の文で語られる。
その中で、2人のニンフは、最初、聖なる裸の重荷(le sacré fardeau nu)と一体化して捉えられるが、次の段階では、非情な女(l’inhumaine)と内気な女(la timide)に分割される。

Je t’adore, courroux des vierges, ô délice (75)
Farouche du sacré fardeau nu qui se glisse
Pour fuir ma lèvre en feu buvant, comme un éclair
Tressaille ! la frayeur secrète de la chair :
Des pieds de l’inhumaine au cœur de la timide
Que délaisse à la fois une innocence, humide
De larmes folles ou de moins tristes vapeurs.

おれはお前を熱愛する、乙女たちの怒りよ、おお、人慣れしない甘美さよ、(75行目)
聖なる裸の重荷の。その重荷は滑り、
そして逃れる、炎のように燃え上がるおれの唇から、稲妻が
身震いするように! 肉の秘密の畏れを飲み込むおれの唇から。
(唇はたどっていく)、非情な女の足から、内気な女の心臓へと、
どちらの女も、無邪気さから見捨てられている、その無邪気さは湿っている、
狂った涙か、それほど悲しくはない蒸気によって。

バラの茂みに連れてこられたニンフは、まず最初、乙女たち(vierges)と呼ばれ、彼女たちは怒り(courroux)を露わにする。
牧神はその怒りに向かい、お前を愛している(je t’adore)と叫ぶ。というのも、彼にとって遊び(ébat)が初めて(vierge)で、人慣れしていない(farouche)のは、甘美なこと(délice)であるからだ。

このcourrouxとdéliceの対比によって牧神のエゴイスティックな欲望が暗示された後、裸(nu)、肉(la chair)、唇(ma lèvre)など身体の具体的な部位に関係する動きが、滑る(se glisse)、逃れる(fuir)、飲む(buvant)、震える(tresaille)といった動詞によって、生な生しく描き出される。

。。。。。

その動きは、一つの神聖な重荷(le sacré fardeau)が、非情な女(l’inhumaine)と内気な女(la timide)に分離されるとさらに強まり、牧神の唇(ma lèvre)の動きも、一方の女の足から(des pieds)もう一方の女の心臓へ(au cœur)と、さらに具体性を増す。

その時、二人は無邪気さ(une innocence)に見放される(délaisse)。つまり、彼女たちはもはや無邪気な存在ではない。

その無邪気さを湿らせている(humide)のは、狂ったような涙(larmes folles)か、それほど悲しくもない蒸気(moins tristes vapeurs)。
それらが二人の乙女のものなのか、あるいは牧神のものなのかは、読者の判断による。
つまり、最終的には彼女たちも快楽を味わわなかったわけでもないと理解する読者もいる。そして、そうした読者は、次に続く牧神の言葉も含め、牧神がニンフを力ずくで襲う場面にエロティシスムを感じ、エロチックな場面、露骨な性描写、卑俗な物語といった読み方に終始する。

しかし、そうした読み方ではなく、牧神がエゴイスティックに快楽を感じ、彼の涙や蒸気が娘たちの無邪気さを濁らせたと考えることもできる。だからこそ、次に、おれの罪(mon crime)という自覚が生まれる。


82-92行では再び引用符が用いられ、牧神が自らの罪(mon crime)を直接話法で語るという形式が取られ、二人に分割されたニンフは、再び一つの存在として語られる。

» Mon crime, c’est d’avoir, gai de vaincre ces peurs (82)
» Traîtresses, divisé la touffe échevelée
» De baisers que les dieux gardaient si bien mêlée ;
» Car, à peine j’allais cacher un rire ardent 
(85)
» Sous les replis heureux d’une seule (gardant
» Par un doigt simple, afin que sa candeur de plume
» Se teignît à l’émoi de sa sœur qui s’allume,
» La petite, naïve et ne rougissant pas : )
» Que de mes bras, défaits par de vagues trépas,
» Cette proie, à jamais ingrate, se délivre
» Sans pitié du sanglot dont j’étais encore ivre.

「おれの罪は、そんな畏れを打ちまかすのが楽しくて、(82行目)
裏切りものの畏れをだ、髪の房を引き裂いたことだった、
口づけで乱れた髪の房、神々があれほど見事に絡ませた房を。
というのも、おれは情熱的な笑いを隠そうとしていた、(85行目)
ただ一人の女の形のよい襞の下にだ、(その女は(妹を)守っている、
一本の指だけで、羽根の純潔さが、
燃え上がる姉の動揺を感じて色づくようにと、
妹を、純情で、顔を赤らめることのない妹を。)
するとすぐに、おれの腕、おぼろげな死によって壊された腕から
その獲物、永遠に恩知らずの獲物は、逃げ去ってしまう、
啜り泣きを憐れみもせずに、おれがいつまでも酔いしれていた啜り泣きを。」

牧神の罪(mon crime)とは、神々が溶け合わせておいた(les dieux gardaient (…) mêlée)髪の房(la touffe)を、分割してしまった(avoir divisé)こと。

二人のニンフを一体化したのは神々であり、だからこそ、裸の重荷(le fardeaux nu)は神聖(sacré)なものと見なされる。
牧神は、その神聖な存在の髪の房を、口づけ(baisers)によって乱し(échevelé)、しかも分割してしまった。
その際、畏れ(ces peurs)を感じるが、それは裏切りものの( traîtresses)畏れだとされる。
peursに続くtraîtressesが次の行に投げ出され、詩法におけるルジェ(rejet)の位置に置かれることで強調されているのは、乱暴な行為をする牧神ではあるが、心には畏れが潜むことを暴くという裏切り行為を働くからに違いない。

。。。。。

85行目の最初に置かれたCar(なぜなら)は、牧神の行為が罪である理由を伝えることを示すが、最終的には、獲物に逃げられたことが罪であるかのようにも読むことができる。

まず、85-92の全体を見ると、牧神が笑い(un rire)を一人の女の襞の下に(sous les replis (…) d’une seule)隠そうとした(j’allais cacher)。するとすぐに(à peine)、牧神の腕から(de mes bras)、獲物(cette proie)が逃げ去る(se délivre)。(à peine j’allais cacher … que la proie se délivre…)

最後の段階で、牧神が夢から覚めたか覚めないかの状態、言い換えれば、おぼろげな死(des vagues trépas)の状態にあることが明かされる。
その中で、牧神は、夢の中に現れたニンフへの愛にすすり泣き(le sanglot)、そのすすり泣きに酔っていた(j’étais encore ivre)ことを、虚ろに思い出す。
他方、獲物(la proie)は、牧神の欲望によって無から有へと移行したにもかかわらず、その恩を絶えず忘れ(à jamais ingrat)、牧神のすすり泣きを憐れみもせず(sans pitié)、逃げ去ってしまう。

こうした展開の中で、スポットライトを当てられるのは、獲物の存在様態。
は一人の女(une seule)とされるが、カッコの中で、彼女は姉(sa sœur)であるが、指一本で(par un doigt simple)で妹(la petite)を守る(gardant)、という説明が付け加えられる。

一人でもありながら二重化する存在こそが、牧神が捉えようとするニンフの最も重要な点である。
姉は、火が点くように燃え上がり(s’allume)、激しく動揺(l’émoi)する。
妹は、純情(naïve)で、顔を赤らめることもない(ne rougissant pas)。
その対照に基づきながら、妹の純潔な羽根(sa candeur de plume)が、姉の動揺を感じ取り、紅色に染まる(se teignît)ように(afin que)と、姉は妹を指一本で抱きかかえている。
(ちなみに、afin queの後ろに来る動詞は接続法。ここでSe teignîtと接続法半過去で活用されているのは、主節の動詞j’allaisが過去であることから来る時制の一致。)

二人が眠る姿を描いた70行目の詩句では、des dormeuses parmi leurs seuls brasと腕と腕が絡みつく姿が連想できたが、ここではun seul doigtが二人を繋ぐものであり、独立した二人が抱き合うのではなく、むしろ一つの存在が徐々に分岐していくようにも感じられる。

このように、「一」と「多」との関係が繰り返し語られるのは、ニンフが音楽の表象でもあることと関係するに違いない。

葦笛の空洞の中に息を吹き込むと、音色とリズムを持った音の連鎖が紡ぎ出される。元にあるのは一つの息だが、笛から生み出されるのは多様な音。
牧神とニンフの戯れ(ébat)は、一方では官能的な遊戯として描かれるが、他方では音楽に基づく詩(ポエジー)の創造でもある。

そのように考えると、牧神が捉えようとするものは詩に他ならない。そして、詩は、どんなに牧神が激しくあるいは巧みに追い求めようと、逃れ去ってしまう。
牧神が再び膨らめようという「思い出」は、絶望的に詩を追い求める詩人の姿を捉えた物語(フィクション)として読むこともできる。



牧神の身体性を感じるためには、1912年にパリで上演されたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の「牧神の午後」を見るといいかもしれない。
クロード・ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の音楽に乗せて、振り付けを担当したニジンスキー自身が牧神を踊った。

見にくくはあるが、1912年の公演の映像も見ることができる。

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