ボードレール 「シテール島への旅」 Baudelaire « Un Voyage à Cythère » 1/3 愛の女神ヴィーナスの島へ

シャルル・ボードレールは、「シテール島への旅」の中で、ジェラール・ド・ネルヴァルが1844年に発表したギリシアの紀行文を出発点にしながら、自らの詩の世界を作り上げていった。

4行で形成される詩節が15連なる60行の詩の最後になり、詩人はこう叫ぶ。

Ah ! Seigneur ! donnez-moi la force et le courage
De contempler mon cœur et mon corps sans dégoût !

ああ! 主よ! 私にお与えください、力と勇気を、
自らの心と体を見つめるのです、嫌悪することなしに!

この懇願が発せられるのは、エーゲ海諸島の一つシテール島において。

シテール島は、神話の中で、海の泡から誕生したヴィーナスが最初に上陸した地とされ、ヨーロッパ人の想像力の中では、長い間、愛の島として知られていた。

他方、歴史を振り返ると、中世にはヴェネツィア共和国の統治下にあり、イタリア語でセリゴ( Cerigo)と呼ばれていた。その後、1797年にナポレオンが支配下に置き、フランス領イオニア諸島に組み込む。だが、1809年、イギリス軍がイオニア諸島を占領し、1864年にギリシャ王国に譲渡されるまで、イギリスの統治が続く。

その間、シテール島は、人々の想像力の中では神話的なオーラを保ちながら、現実には何の特徴もない平凡な島になっていた。
ヨーローパの人々がギリシアに向かう時には、神話的な空想を抱きながら、そうした現実に出会うことになる。

もちろん、地中海を通り、ギリシアに近づくについて、船上の旅人の心は浮き立つに違いない。天気がよければなおさらだ。

Un Voyage à Cythère


Mon cœur, comme un oiseau, voltigeait tout joyeux
Et planait librement à l’entour des cordages ;
Le navire roulait sous un ciel sans nuages,
Comme un ange enivré d’un soleil radieux.

シテール島への旅

私の心は、1羽の鳥のように、ひどく楽しげに空を旋回し、
自由にトンでいた、帆綱の周りを。
船は進んでいった、雲一つない空の下を、
輝く太陽に酔いしれる天使のように。

赤い丸で囲ったのがシテール島

クルーズ船に乗り、エーゲ海の島々に近づいていく時のワクワク感を想像すると、この詩句が伝える喜びをストレートに感じることができるだろう。

とても楽しげに(tout joyeux)、自由に(librement)という感覚は、次第に、酔いしれて(enivré)になる。
雲一つなく(sans nuages)、輝く太陽(un soleil radieux)に照らされ、海の真っ青な海を進み、ギリシアに近づいていく。
そんな想像をするだけで、恍惚(extase)となる。

「シテール島への旅」を理解する上でとりわけ重要なことは、最初の言葉が、私の心(mon cœur)であること。
その言葉は、詩の最後にも現れ、通奏低音として常に鳴り響いている。
こう言ってよければ、「シテール島への旅」は ” 私の心 “をめぐる旅の記録なのだ。

そして、それこそが、出発点となったネルヴァルの紀行文との本質的な違いになる。そのことは後で検討することにして、詩の続きを読んでみよう。


船はシテール島に接近していく。
すると、現実の島の様子が目に入ってくる。

Quelle est cette île triste et noire ? – C’est Cythère,
Nous dit-on, un pays fameux dans les chansons,
Eldorado banal de tous les vieux garçons.
Regardez, après tout, c’est une pauvre terre.

なんだろう、この悲しく黒々とした島は? — これがシテール島だ、
と誰かが私たちに言う、シャンソンの中で誰もが知る国、
全ての独身男たちの、平凡な理想郷、
ほら、要するに、哀れな地だ。

現実を前にすると、いきなり夢が覚め、失望が訪れる。こうした夢と現実のギャップの構図を、ボードレールはネルヴァルの紀行文から借用した。

そのことは、2つの原稿から証明される。
(1)1851年、「パリ評論(Revue de Paris)」という雑誌に掲載してもらうために、ボードレールが、編集責任者であるテオフィル・ゴーチエに送った12編の詩の原稿。

Le point de départ de cette pièce est quelques lignes de Gérard (L’Artiste) qu’il serait bon de retrouver.
(この作品の出発点はジェラールの数行(「芸術家誌」)で、見つけられるとありがたい。)

(2)ネルヴァルに送られたと考えられる原稿。

Ici mettre en épigraphe quelques lignes de prose qui m’ont servi de programmer et que je crois avoir lues dans L’Artiste.
(ここにエピクラフトして数行の散文を置くこと。それが私にとって設計図になったもので、「芸術家誌」で読んだ覚えがある。)

ネルヴァル宛てと思われる原稿を見るとわかるように、引用してほしいという数行は、線が引かれているだけで、文章が書かれてはいない。
そこで、ボードレールがエピグラフに選択しようとしたに違いないネルヴァルの散文を「芸術家誌」から探すと、1844年に掲載された「シテール島への旅」の中に、次のような記述が見つかる。

J’étais sur le pont dès cinq heures, cherchant la terre absente depuis deux jours, (…) — attendant la vue de ce noble rivage comme l’apparition d’un dieu. (…)
Je l’ai vue (la Grèce) ainsi — je l’ai vue ; ma journée a commencé comme un chant d’Homère : c’était vraiment l’Aurore aux doigts de rose qui m’ouvrait les portes de l’Orient ! (…) Ne dirait-on pas que le front d’une déesse et ses bras étendus soulèvent peu à peu ce voile des nuits étincelant d’étoiles ? — Elle vient, elle approche, elle glisse amoureusement sur ces flots divins qui ont donné le jour à Cythérée. (…)
Aujourd’hui cette île s’appelle Cérigo, et appartient aux Anglais.
Voilà mon rêve et voici mon réveil ! Le ciel et la mer sont toujours là ; le ciel d’Orient, la mer d’Ionie se donnent chaque matin le saint baiser d’amour ; mais la terre est morte, morte sous la main de l’homme, et les dieux se sont envolés. ( Gérard Nerval « Voyage à Cythère », L’Artiste, le 30 juin 1844 )

ぼくは朝の5時から甲板の上にいて、2日前からずっと見えることがなかった地面を見つけようとしていた。— あの高貴な海岸線が、神が出現するように、見えてくるのを待っていたのだ。(中略)
 そんな風にして、ぼくはギリシアを見た。— 見たんだ。ぼくの一日は、ホメロスの歌のように始まった。本当に、バラの指をした曙の女神が、オリエントの扉を開いたのだった! (中略) 女神の額と伸びた腕が、星々の輝く夜の帳(とばり)を少しづつ持ち上げた、といったようではないだろうか? — 女神が到来し、近づき、愛おしげに神々しい波の上をすべていく。その波がシテールの女神(ヴィーナス)を生み出したのだった。(中略)
 現在、その島はセリゴと呼ばれ、イギリス人のものになっている。
 あちらはぼくの夢で、こちらがぼくの目覚めだ! 空と海はいつでもそこにある。オリエントの空とイオニアの海は、毎朝、聖なる愛の口づけを交わす。しかし、大地に死んでしまった。人間の手によって死に、神々は飛び去ってしまった。
(ジェラール・ド・ネルヴァル「シテール島への旅」『芸術家誌』1844年6月30日)

ネルヴァルは、夢(rêve)と目覚め(réveil)の対比を、ヴィーナスの誕生という神話とイギリス人の支配という現実政治を使い、読者に強く印象付けることに成功している。

しかも、神話の次元では、ホメロスに出てくる暁の女神やシテール島の女神であるヴィーナスを美しい映像で甦られ、読者を神話の世界に導きながら、その一方では、シテールをセリゴという名前で呼び、夢が現実とぶつかり砕けてしまう様を、生き生きと伝える。
人間の手によって、神々は飛び去ってしまったのだ、と。

ボードレールは、こうした一節に強い印象を受け、彼自身の「シテール島への旅」の出発点としたのだろう。

。。。。。

ただし、シテール島の現実的次元といっても、実際にエーゲ海諸島を航海したネルヴァルと、空想の中でだけ旅するボードレールで、言及する内容は違ってくる。

ネルヴァルもシテール島に滞在したわけではなく、それ以前の紀行文や考古学的な書物の知識を組み合わせたものだが、しかし、ネルヴァルの散文は紀行文としての体裁を整えているので、現地の様子が現実的な筆致で描かれている。

それに対して、ボードレールは、シャンソンの中の有名な国(un pays fameux dans les chansons)だとか、全ての独身男たちの平凡な理想郷(Eldorado banal de tous les vieux garçons)といった表現で、”愛”の女神の島を男たちにとっての快楽の場として提示する。

シャンソン作家ベランジェ(Béranger)の「友ロバン(L’ami Robn )」の歌詞では、シテールは次のように歌われる。
 
            

De tout Cythère
Sois le courtier :
Ami Robin, quel bon métier !

Prodiguons l’or, et des maîtresses
De toutes parts vont nous venir :
Car si nous tenions aux comtesses,
Robin pourrait nous en fournir.

シテール全体の、
仲買人になってくれ。
友ヨバンよ、なんていい商売だ!

金をばらまこう、そうすれば、女たちが、
いたるところから、こっちにやってくる。
もし伯爵夫人がよけりゃ
ロバンが連れてきてくれる。

この歌詞に代表されるように、ある時代まで、ヨーロッパの男たちにとって、オリエントの女性たちは性の対象として見られることが多かった。
ボードレールの詩句は、そうした貧しい想像力の中で思い描かれるシテール島のイメージを反映している。それが一つの現実なのだ。


さらに、ネルヴァルに倣い、神話的なシテール島を思い描くことも忘れない。

– Île des doux secrets et des fêtes du cœur !
De l’antique Vénus le superbe fantôme
Au-dessus de tes mers plane comme un arôme,
Et charge les esprits d’amour et de langueur.

— 甘い秘密の、そして、心の祝祭の島!
古代のヴィーナスの、堂々とした亡霊が、
お前の海の上空に、香りのように漂う。
そして、人々の精神を、愛と物憂さで満たす。

お前の海(tes mers)とは、シテール島を取り囲む海のこと。

その上を漂い(plane)、支配するかのような古代のヴィーナス(l’antique Vénus)を思い描くと、人々の精神(les esprits)は、うっとりとするような(langueur)愛(amour)で満たされる。

繰り返しになるが、ここでも心(le cœur)に言及される。
その心にとって、ヴィーナスを思い描くことは、古代に執り行われ、今では神秘あるいは秘密(secrets)に包まれたお祭り(fêtes)のようでもある。

ネルヴァルは、ホメロスなど神話を出典として文学的な知識をちりばめて描いた。
それに対して、ボードレールは、彼の世界に特有の香り(un arôme)にも触れながら、シテール島の愛の秘儀を思い出させる。


以上の3つの詩節は、ギリシアへと近づく時の期待感、現実の島の姿、神話の思い出と続く中で、夢と現実の対比に基づく構成が、ネルヴァルの散文を土台としていることを確認できる。

同じ現実と夢の相剋は次の詩節からも続くが、そこに一つの思いがけない物が突然登場する。そして、それもネルヴァルの紀行文から借用したもの。
旅人は何を目にするのだろう?

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