
「感覚(Sensation)」は、15歳のランボーが、高踏派を代表する詩人テオドール・ド・バンヴィルに宛てた1870年5月24日付けの手紙の中に同封した詩の一つ。
その手紙でランボーは、16世紀の詩人ロンサールを起源とし、ロマン主義から高踏派へと続く、「理想の美(la beauté idéale)」を追い求める詩人たちを真の詩人と見なし、その系譜の中に自分を位置づけている。
「感覚」はその言葉を証明するために同封された詩だった。
「感覚」の中で使われる動詞が全て単純未来で活用されるのは、「私(je)」の感じる幸福感が、これから実現されるはずの「理想」であり、15歳の少年詩人がその感覚に「美」を見出したことを示している。
Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,
Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :
Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue !
夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう、
麦の穂にちくちくさされながら、細い草を踏んで。
夢見心地の中で、草のひんやりとした感覚を感じるだろう、ぼくの足に。
風が浸すままにしておくだろう、帽子をかぶらないぼくの頭を!

この第一詩節で取り上げられるのは、触覚。
細い草(l’herbe menue)を踏んで(fouler)歩いて行くうちに、足が麦(les blés)の穂でちくちくし(picoté)、ひんやりとした感覚(la fraîcheur)も味わう。
頭には風(le vent)が当たり、水に浸されるように(baigner)感じる。
こんな風にしていると、夢見心地(rêveur)の中で、体全体が自然に包まれているように感じられてくる。
その幸福感の波は、流音( r, l )が何度も寄せては返す音楽性豊かな詩句を通して伝えられる。
動詞が単純未来形なので、必然的に j’ira, j’en sentirai, je laisseraiと[ r ]の音が反復されるが、それ以外にも数多くの[ r ]の音が詩句の中を流れている。
par, soir, par, herbe, rêveur, fraîcheur,
その流れは、もう一つの流音 [ l ]によって、さらに強められる。
les, bleus, les, les, fouler, l’herbe, la, laisserai, le
こうした詩句の流れは、「私」の体が自然の中に溶け込んでいく感じを生み出す。
そして、その時の気持ちのよさは、rêveurとfraîcheurに含まれるeurの音が重なることで、音だけではなく、意味としても伝えられる。
その二つの言葉を含む3行目の詩句だけは、6/6の区切れの他に、rêveur (2) / j’en sentirai (4)ともう一つの区切れが加えられ、rêveurが強調されている。
その上で、後半のfraîcheurと母音が重複し、夢見心地の中で新鮮さが感じられることが伝えられる。
第2詩節では、rêveurな状態が強調された上で、空想がさらに広がる。
Je ne parlerai pas, je ne penserai rien :
Mais l’amour infini me montera dans l’âme,
Et j’irai loin, bien loin, comme un bohémien
Par la Nature, — heureux comme avec une femme.
口を開くこともないだろう、何も考えないだろう。
そのうち、無限の愛が、ぼくの魂の中に昇ってくるだろう。
ぼくは遠くに行くだろう、とても遠くに、放浪者みたいに、
「自然」の中を通って。 — 女といる時みたいに幸せな気分。

何も話さず、何も考えないのは、日本的な表現を使えば、「無の境地」と言ってもいい。
その状態が長く続く感覚が、7行目の詩句で、音的に表現される。
まず、loin, très loinの反復。
次に、bien – bohémienと、b と ienを反復する。
それらの反復によって、「私」が、放浪者のように(comme un bohémien)いつまでも彷徨い続ける感覚が伝えられる。
「私」が放浪する場所は、「自然(la Nature)」の中。
Natureの最初の子音を大文字にすることで、自然が固有名詞のように捉えられ、擬人化される。
しかも、この詩の中で唯一、前の行と意味の繋がる語句を次の行に送るルジェ(rejet)という手法が用いられ、par la Natureが強調される。
その「自然」は、第1詩節では、麦(blés)、草(herbe)、風(vent)と具体的な事象として表現されていた。
それが、第2詩節では「自然(la Nature)」という言葉でいったん抽象化される。
その上で、「一人の女(une femme)」と比喩的に表現されることで、再び具体的な感触を感じさせるものになる。
そこで、この詩全体を通して、麦や草や風が体に触れる時の感触が、「自然」全体から皮膚感覚として伝わってくるようになる。

このように読んでくると、「無限の愛(l’amour infini)」とは何かが理解できるのではないだろうか。
その愛とは、自然を肌で感じとり、幸福感がこみ上げてくる時の感覚。
現代の日本で言えば、「自然によって癒される」と感じる時の感覚。
そうした時、「私」という個体の意識も、対象としての「自然」という意識もなく、ただ幸せな感覚だけがある。
ランボーは、「私」と「自然」が渾然一体となった状態で感じるその感覚を「愛(amour)」と呼び、主体と対象との間に境のない状態を「無限(infini)」と表現したのだった。
第2詩節では、そのamourという言葉に含まれる [ m ]の音が、[ r ]と[ l ]にアクセントを加えている。
amour, me, montera, âme, comme, bohémien, comme, femme
[ m ]の音が聞こえる度にamourが蘇り、自然の感覚(sensation)がもたらす幸福感が感じられる。
ただし、全ての動詞は単純未来であり、この詩句の内容が現実の体験ではなく、少年詩人の空想した「理想」であることが示されている。

「感覚」は、我を忘れて自然の中を歩き回る時の幸福感を、音楽性溢れる詩句で歌っている。
そうした詩の内容はロマン主義的であり、ランボーが自分をロンサール以降の詩の伝統の中に位置づける言葉の証明として、文句のつけようのない出来栄えを示している。
ただし、ランボーがその地点に立ち止まることはなかった。
1年後の1871年5月になると、伝統的な詩法を否定する詩論(いわゆる「見者の手紙」)を書き、同じ年の8月にはバンヴィルに向け、ロマン主義の詩を真っ向から攻撃する詩(「花について詩人に伝えること」)を送りつける。
その大転換を考える際、「感覚」が書かれたと推定される1870年3月から数ヶ月後、1870年10月頃に書かれたと推定される「わが放浪(ファンテジー)(Ma Bohême (Fantaisi)」は、重要なヒントを与えてくれる。
「わが放浪」は、「感覚」と同じテーマを取り上げながら、「感覚」を揶揄する表現がちりばめられていて、伝統を否定して新しい詩を目指す若い詩人の試みに立ち会わせてくれる。
逆に言えば、「感覚」は、伝統を破壊する前のランボーの生(なま)の感受性を伝える貴重な詩だといえる。
「ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福」への1件のフィードバック