サン=テグジュペリ 『星の王子さま』  Antoine de Saint-Exupéry Le Petit Prince ポエジーの源

『星の王子さま』で最もよく知られているのは、子供の頃に書いたヘビの絵、王子さまとバラの諍い、王子さまとキツネの会話だろう。確かにそれらのエピソードは印象深い。

それらに比べると、一般的には少し忘れられているように思われる、美しいエピソードがある。
それは、不時着から一週間後、パイロットが王子さまと一緒に、砂漠の中で一つの井戸を探すエピソード。
映像と音楽が響き合い、抒情的な詩情(poésie)が生み出されている。

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サン=テグジュペリ 『星の王子さま』  Antoine de Saint-Exupéry Le Petit Prince 天空のラピュタ 君をのせて

小さな王子さまは、一年間地球で過ごした後、毒蛇に噛まれて自分の星に戻っていく。
その直前、パイロットに一つのメッセージを伝える。
アプリボワゼが終わり二人の間に絆が出来上がった後であれば、別れた後でも世界で唯一の存在(unique au monde)であることに変わりはない。それだけではなく、他のものにまで愛情が及ぶ。そうした教えをニコニコと笑いながら告げる。

その王子さまの言葉からインスピレーションを受けて、宮崎駿監督は「天空のラピュタ」のエンディングで歌われる「君を乗せて」の歌詞を作詞したと言われている。

王子さまはパイロットにどんなことを告げ、「天空のラピュタ」はその言葉から何を私たちに伝えているのだろう。

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サン=テグジュペリ 『星の王子さま』  Antoine de Saint-Exupéry Le Petit Prince キツネの教える秘密 — アプリヴォワゼ — 詩的物語 

『星の王子さま(Le Petit Prince)』の伝えるメッセージの中心は、小さな王子さまが出会うキツネによって伝えられる。

キツネは王子さまに「アプリヴォワセ(apprivoiser)」してくれと言い、王子は「アプリヴォワセ」とはどういうことか問いかける。
そして、その対話の最後は、「大切なことは目に見えない。(L’essentiel est invisible pour les yeux)」という言葉へと続いていく。

これらの会話を通してとりわけ注目したいのは、『星の王子さま』が普通に言われる意味での「小説」ではなく、子供用の読み物でもなく、詩的な散文で綴られていること。
こう言ってよければ、散文詩的な物語。普通に誰もが使う日常の言葉が使われ、ごく普通の構文に基づきながら、詩情を感じさせる。
フランス語で小さな王子さまとキツネの会話を読むと、Le Petit Princeのしっとりとした詩情(ポエジー)を感じることができ、翻訳で読むのとは違う喜びを味わうことができる。

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サン=テグジュペリ 『星の王子さま』 冒頭の一節 Antoine de Saint-Exupéry Le Petit Prince 20世紀のロマン主義

『星の王子さま(Le Petit Prince)』(1943)は、世界中で人気があり、誰もが一度は題名を耳にし、作者であるサン=テグジュペリ自身が描いた可愛らしい男の子の絵を見たことがあるだろう。

日本でも高い人気を誇り、1953年の内藤濯(あろう)訳以来、20種類以上の翻訳が出版されてきた。

ところが、実際に読んだ人たちの感想は、二つに分かれるようである。
一方では、感激して、絶賛する人々がいる。反対に、最後まで読んだけれど訳が分からないとか、途中で投げ出した、という読者もいる。
そうした極端に分かれる感想の違いは、どこから来るのだろう。

『星の王子さま』の中心的なテーマは、「心じゃないと、よく見えない。本質的なものは、目に見えないんだ。(L’on ne voit bien qu’avec le cœur. L’essentiel est invisible pour les yeux)」という表現によって代表されると考えられている。
この考えが、ロマン主義的だということを確かめ、ロマン主義的な思考に基づいて冒頭の一節を読んで見よう。

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サルトル 『嘔吐』 Jean-Paul Sartre La Nausée 存在とは何かという問い

サルトルと言えば「実存主義(existentialisme)」という哲学思想が浮かび、「実存(存在)は本質に先立つ(l’existence précède l’essence )」という表現と共に、代表的な小説として『嘔吐(La Nausée)』という題名が連想される。

そこで、『嘔吐』の読者は、まず哲学的な興味から作品にアプローチすることになるだろう。
しかし、主人公ロカンタンが日記らしきものに書くことは、「存在するとはたんにそこにあることだ。・・いたるところに無限にあり、余計なものであり、・・それは嫌悪すべきものだった。・・私は叫んだ、”なんて汚いんだ。なんて汚いんだ”。」(白井浩司訳『嘔吐』)
こんな調子が続くと、読者の頭の中は、???となってしまう。

少し頑張って、サルトルの哲学の主著『存在と無(L’Être et le Néant)』にトライして、「存在とはある。存在はそれ自体においてある。存在はそれがあるところのものである。」(松浪信三郎訳)が彼の主張だと言われても、ますます???が重なるばかり。

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ボードレール 「異邦人」 Charles Baudelaire « L’Étranger » 片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず  

散文詩「異邦人(L’Étranger)」は、ボードレールが、ノルマンディー地方にあるオンフルールの海岸や、ウージェーヌ・ブーダンの風景画の中で見た、空に浮かぶ雲を思い起こしながら、詩人の存在について歌った詩だといえるだろう。

詩人は、世界のどこにいても「外国人(étranger)」であり、人間にとって自然だと思われている感情を持たず、常に違和感を感じている。

ボードレールは、自分の中の詩人に向かい、矢継ぎ早に質問をする。

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カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger 最後の一節(excipit)

アルベール・カミュの『異邦人(L’Étranger)』の最後には、死刑の判決を下されたムルソーの独房に司祭がやって来て、懺悔を促す場面が置かれている。

そこでは、それまで全てに無関心なように見えたムルソーが、司祭に飛びかかるほど強い拒否反応を示す。

裁判の弁論では、他の人々には不可解に見える彼の行動について、理由の推定が行われた。つまり、一つの出来事にはそれなりの原因があるとする一般論に基づいて、彼の行動に関する物語が作られたのだった。
司祭は、死後の魂を救済するという意図の下、独房の死刑囚に懺悔を強いようとする。それは、裁判の場を支配していた漠然と共有された社会通念ではなく、明確に定まった宗教的倫理によって、ムルソーを再定義し直すことに他ならない。

ムルソーにとって死は生の連続性の中にあり、そのまま受け入れることができる。しかし、司祭の勧めは、全く別のシステムを受け入れることになり、激しく反発せざるを得ない。
司祭が独房から去った後、ムルソーは、『異邦人』の最も中心的なテーマである「死」と直面する。

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カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger ムルソーの裁判 Plaidoyer de l’avocat de Meursault

『異邦人(L’Étranger)』の第2部は、アラブ人を銃で撃ち、死なせてしまったムルソーの裁判と死刑になるまでが語られる。

裁判では、アラブ人を殺した動機と同時に、母の葬儀に際してのムルソーの態度が取り上げられ、検察や弁護士が、全てをある一定の論理に従って整理しようとする。
その一方で、ムルソーにとって、全てが自分とは関係のない出来事のように思われる。
そのズレは、裁判が社会通念に従い、不可解な生の出来事を一つの物語として組み立て直す作業だということを示している。

裁判官は、「なぜ?」という疑問に対する答えがなされることで、判決を下すことができる。納得がいく説明ができなければ、罪人として告発された人間を裁くことはできない。

ところが、ムルソーは、しばしば、「なぜかわからない」と応える。彼は、自分の行動を社会通念に合わせて説明しなおすことをしない人間なのだ。
そうした側面は、第一部では、母の葬儀に対する無関心な態度や、恋人マリーに愛しているかと問いかけられ、「わからない」としか答えない様子、理由もなく殺人をしてしまう行動などから、描き出されていた。

第2部では、裁判の場面を通して、ムルソーが対峙せざるをえない社会通念がより明確に浮かび上がってくる。

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カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger 冒頭の一節(Incipit) 変な奴の違和感

時々、ちょっとおかしいと感じる人に出会うことがある。逆に、自分が他の人と少し違っているのではないかと感じ、居心地が悪くなる時があったりする。
そうした違和感は、あまり意識化されていない回りの雰囲気を漠然と感じ取り、そこから多少ズレていると朧気に感じる時に生まれてくる。
つまり、個人がおかしいというよりも、目に見えない規範との違いが、居心地の悪さ、違和感を生み出すのだといえる。

アルベール・カミュは、1942年に出版された『異邦人(L’Étranger)』の中で、そうした違和感をテーマとして取り上げた。

ムルソーは、母親の死、恋人への想い、殺人等に対して、「当たり前」とは違う反応をする「変な奴」。
普通であれば、ある状況に置かれればこうするだろうという行動を取らない。そのために、他の人たちは、彼の行動の理由も、彼自体も理解できない。
しかも、いくら「なぜ?」と問いかけても、ムルソーの答えはピンとこない。

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モリエール 17世紀後半の二つの感受性 「人間嫌い」 Molière Le Misantrope オロントのソネットと古いシャンソン

「人間嫌い(Le Misantrope)」の中で、オロントが自作のソネットを読み、アルセストとフィラントに率直な意見を求める場面がある。(第1幕、第2場)

この芝居が上演された17世紀後半は、人と合わせることが礼儀正しさと見なされ、相手に気に入られるように話すことが、宮廷社会に相応しい行動だった。

フィラントは、そうした「外見の文化」の規範に従い、ソネットを誉める。

その反対に、アルセストは、心にもないことを言うのは偽善だと考え、思ったことを率直に伝えるのが正しい行為だと考えている。
そこで、オロントに意見を求められた時、最初は遠回しな言い方をするが、最後には直接ソネットは駄作だと貶してしまう。
https://bohemegalante.com/2020/10/11/moliere-misantrope-sonnet-oronte/

その際に比較の対象として、古いシャンソン「王様が私にくれたとしても(Si le roi m’avait donné)」を取り上げ、その理由を説明する。
その時の詩とシャンソンに関するアルセストの批評から、私たちは、17世紀後半における2つの感受性を知ることができる。

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