小林秀雄の語る中原中也 言葉に触れる体験としての文学

私たちが最初に文学作品にを読むのは、多くの場合、小学校での授業だろう。そこで、どこが好きとか、どこが面白かったとか尋ねられ、感想文を書かされたりする。
中学や高校になれば、作者の思想を考えたり、心情を推察したりし、それについての自分の考えを言わされたりもする。
そんな時、「自由に解釈していいと言いながら、正解が決まっている」という不満を抱いたりもする。

こうした読み方をしている限り、文学を好きになるのはなかなか難しい。というのも、文学作品に接する第一歩はそこにはないから。

では、作品と読者が触れ合う第一歩はどこにあるのか?

読者が眼にするのは文字。文字の連なりを辿っていくと、理解の前に、感触がある。比喩的に言えば、読書とは、「見る」よりも先に「触れる」体験だといえる。
その「感触」は「理解」と同時に発生しているのだが、多くの場合、「理解」だけが前面に出て、「感触」は意識に上らないままでいる。

その「感触」は決して感想ではない。むしろ実際の「触覚」に近く、ほとんど身体感覚だといえる。

中原中也の死に関して小林秀雄が書いた文章を読み、言葉の運動を体感してみよう。

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中原中也 骨 “自分が自分を見る” 可笑しさ 

中原中也の詩の中ではとても珍しいのだが、「骨」は、悲しみも苦しみも感じさせず、ユーモラスで、朗らかな感じが全体を包んでいる。
死んだ自分が自分の骨を見ているという内容とは相容れない屈託のなさがある。
しばしば中也の道化的な言葉の裏には憂鬱や悲しみがあるが、この詩には暗い影がさしていない。

もし、自己の存在感のなさから来る不安とか、中也の表情が見えず彼の衰弱を露呈しているとか、中也の孤独感、苦々しい自嘲といったものと読み取るとしたら、それは、読者の持つ中也像や内心の感情を、この詩に投影しているのかもしれない。

自分の骨を見る自分という構図から、骨を取り除くと、臨死体験的なことではなく、単に自分を見る自分になる。自分を反省するとか、自己分析するというのであれば、誰もが経験があるだろう。
とりわけ、若い時には、自分とは誰か、どのような存在なのか、考えることがある。

自己分析をすれば、暗くなる。
それは当たり前のことだ。自分の中をのぞき込むのは、ロダンの「考える人」。
メランコリーに取り憑かれた、憂鬱な人間の典型的なポーズに他ならない。

別の言い方をすると、主体としての「私」が、客体としての「私」を見ることになる。
それが「自分を知る」ためには不可欠な行為と考えられることも多い。

中也は、「骨」を通して、そのような「自分が自分を見る」行為を滑稽に描き、最後にそれとは違う認識の形を提示する。だからこそ、この詩には暗い陰がなく、むしろ、少しばかり皮肉なユーモアが感じられる。

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中原中也 汚れつちまつた悲しみに…… “傷ついた抒情精神を歌う”

「汚れつちまつた悲しみに……」は、中原中也の詩の歌心をはっきりと教えてくれる。

4行から成る4つの詩節が一見規則正しく並び、一行の拍数も7/5調を基本としてほぼ一定。
その整然とした枠組みの中に、微妙なニュアンスが加えられ、単調さを感じさせない。
例えば、「汚れつちまつた悲しみ」がわずか16行の詩の中で8回も反復されるが、格助詞の「に」と「は」が巧みに使い分けられ、独特の味わいを生み出している。

内容面では、前半部では外の風景が描かれ、後半部では感情や心の中の思いが表現される。そして最後に、「日は暮れる……」と外の風景に戻る。

詩全体を通して、一度も悲しみの主体に関する言及がなく、何が悲しいのか、なぜ悲しいのか、誰が悲しいのかさえ明らかにされない。
それにもかかわらずなのか、それだからこそなのか、読者は悲しみを自分の悲しみであるかのように思いなし、歌を口ずさむように、「汚れつちまつた悲しみに」と繰り返し口ずさむことになる。

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中原中也 月夜の浜辺 “貴方が情けを感じるものを”

「月夜の浜辺」は、中原中也の詩心をかなり明確に示している。

詩が語る内容はほとんどないに等しい。
月の出ている夜、浜辺を散歩している時に一つのボタンを拾い、捨てられないでいる。
散文にすれば1行で終わる。

その内容を17行の詩句で展開するとしたら、詩の目指すものは何だろう?

月夜の浜辺

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛(ほう)れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

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中原中也 サーカス まどろむ悲しみ

Bernard Buffet, The Trapeze Artists

「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」。
このオノマトペ(擬音語・擬態語)が「サーカス」の印象を決定付けると言っても過言ではない。
中原中也は、この音の塊を、「仰向いて眼をつぶり、口を突き出して、独特に唱った」という。

詩の中心をなす単語一つを取り上げるとしたら、「ノスタルジア」。
かつて愛していたけれど今はない何か。その何かに対する切ない想い。郷愁。

どこか淋しげだけれど、しかし、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と揺れるブランコが、揺り籠のように心を揺らし、まどろませてくれる。

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ランボー 「花々」 Arthur Rimbaud « Fleurs » ランボー詩学の精髄:初めに言葉ありき

「花々(Fleurs)」は、ランボー詩学の精髄を理解させてくれる散文詩。

詩人は現実に存在する何らかの花を描くのでも、それについて語るのでもない。

彼の詩学の理解に有益な韻文詩「アマランサスの花の列(Plates-bandes d’amarantes…)」において、詩人は現実から出発し、言葉が現実から自立した世界へと移行した。
https://bohemegalante.com/2019/07/09/rimbaud-plates-bandes-damarantes/

散文詩「花々」になると、現実などまったくお構いなしに、ただ言葉が連ねられていく。
読者は、勢いよく投げかけられる言葉の勢いに負けず、連射砲から繰り出される言葉たちを受け取るしかない。
ランボーがどんな花を見、何を伝えようとしたかなどを考えるのではなく、言葉そのものが持つ意味を辿るしかない。
そうしているうちに、言葉たちが生み出す新しい世界の創造に立ち会うことになる。

正直、「花々」を一読して、何が描いてあるのか理解できない。まずは、文字を眼で追いながら朗読を聞き、言葉の勢いを感じてみよう。

Fleurs

D’un gradin d’or, – parmi les cordons de soie, les gazes grises, les velours verts et les disques de cristal qui noircissent comme du bronze au soleil, – je vois la digitale s’ouvrir sur un tapis de filigranes d’argent, d’yeux et de chevelures.
Des pièces d’or jaune semées sur l’agate, des piliers d’acajou supportant un dôme d’émeraudes, des bouquets de satin blanc et de fines verges de rubis entourent la rose d’eau.
Tels qu’un dieu aux énormes yeux bleus et aux formes de neige, la mer et le ciel attirent aux terrasses de marbre la foule des jeunes et fortes roses.

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中原中也 一つのメルヘン 生=美の原型

中原中也の詩は抒情的で、読者をうっとりとさせてくれる。しかし、彼を実際に知っていた人たちの証言では、とにかく人にからみ、みんなに厭な思いをさせたらしい。

有名なのは、太宰治と一緒に飲んでいる時のこと。中也が太宰に言う。
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
太宰は、今にも泣き出しそうな声で、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と応え、悲しい薄笑いを浮かべる。
「チエッ、だからおめえは。」と中原は言い、その後、乱闘が始まった。
(檀一雄『小説 太宰治』より)

ある作家は、中原を直接知らない読者は幸せだと言った。彼を知っていたら、詩を読んでも、彼の厭な姿が思い浮かんできてしまう、と。

私たちは普通、人柄が文章に反映すると考えがちだ。「文は人なり。」と言われれば、容易に納得する。
しかし、「からみ」体質の中也の筆から、「一つのメルヘン」のような清浄で静謐な詩が生まれる。
詩人の中で、何が起こっているのだろう?

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ボードレール 群衆 Baudelaire « Les Foules » 都市 群衆 モデルニテの美

Edouard Manet, La Musique aux Tuileries

ある時代に当たり前だったことが、ある時から当たり前ではなくなることがある。そして、新しい当たり前が出来上がると、前の時代に当たり前だったことが何か忘れられてしまう。

現代の都市に住む私たちにとって、隣人さえ知らないことがあり、同じ町内の人を知らないなど当たり前すぎる。町内の人をみんな知っている方が驚きだ。

では、小さな村に住んでいるとしたら、どうだろう。今でもみんな知り合いで、会えば必ず挨拶する。一言二言言葉を交わし、家族のことを聞いたりするかもしれない。人間的な触れあいのあるコミュニティ。暖かくもあれば、鬱陶しくもある。
その中に知らない人間が入ってくれば、異邦人であり、侵入者と見なされる。未知は恐怖の対象になる。

Honoré Daumier, Les Trains de plaisir

フランスでは18世紀末の大革命の後、急激に産業化が進み、都市に大量の人々が流入した。パリでは人口が50万人から100万人に倍増したといわれている。

そうした中で、「当たり前」の大変革が起こった。
自分の住む場所が、「知り合いの町」から「未知の人々の都市」へと変化し、一人一人が「特定の名前を持った個人」から「不特定多数で匿名の存在」にすぎなくなる。

21世紀には当たり前の匿名性が、19世紀前半から半ばにかけては驚くべきことだった。だからこそ、作家や画家たちは、新しい事態に直面し、驚き、作品のテーマとした。
ホフマン、バルザック、トマス・ド・クインシー、エドガー・ポー、ドーミエ、コンスタンタン・ギーズ等々。

1861年、シャルル・ボードレールも、彼らに倣い、パリという大都市にうごめく人々を、「群衆(Les Foules)」のテーマとして取り上げた。群衆という言葉自体、非人称で誰とは同定できない、不特定多数の人間の集合体を指す。
ボードレールはパリの町を歩き回り、群衆の中に紛れ込む。

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吉田秀和の語るフォーレ「月の光」 ヴェルレーヌ、ドビュシー、中原中也

吉田秀和は、『永遠の故郷 夜』の最初の章で、中原中也の話から始め、ヴェルレーヌへと向かい、ガブリエル・フォーレ作曲の「月の光」について語る。

付録のCDで吉田が選んだのは、ルネ・フレミングの歌。ルネ・フレミングは、アメリカ出身のトップクラスのソプラノで、特に声の美しさで有名だという。

「月の光」の章はこんな風に始まる。

 中原中也にフランス語の手ほどきをしてもらったといっても、それは高校一年のせいぜい一年あまりのこと。その終わりころ、私はヴェルレーヌの詩集の全集を買った。フランス製仮綴じ白表紙の本で、全部で五巻か六巻、十巻まではなかったと思う。この全集は、なぜか当時珍しくないものでいろんな店にあり、私は神保町の古本屋で金五円で買ったのだった。
 中原の詩を知れば、誰だってヴェルレーヌが読みたくなって当たり前。両者の血縁関係は深くて濃厚である。また彼は酔うとよく詩を朗読したが、そういう時はヴェルレーヌの詩の一節であることがよくあり、« Colloque sentimental(感傷的対話)»など終始出てきて、これを読む彼の身振りは今でも思い出せる。ただし、私はこの詩はあんまり好きではなかった。
 逆に好きだった一つが« Claire de lune(月の光)»

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ボードレール 2021年4月9日 200歳の誕生日

2021年4月9日はシャルル・ボードレールの200歳の誕生日。
1821年4月9日にパリで生まれたボードレールは、1867年8月21日パリで死んだ。しかし、彼の詩は21世紀になってもフランスで最も読まれている詩人でもあり、現在の美意識にも大きな影響を及ぼし続けている。

古典的な美が均整と調和をベースとし、いつの時代に誰が見ても美しいと感じるとしたら、ボードレールが生み出した「モデルニテ」の美は、モードであり、時代とともに変化し、前の時代には醜いものと見なされていたかもしれず、次の時代には時代遅れと感じられるかもしれない。

しかも、モデルニテの美は、それ自体を説明する原理を含んでいる。自己表現しながら、自己批評する。完成品であると同時に、パフォーマンスでもある。

現在ネット上で大量に流されている映像は、しばらく前にはとても美の基準には入らないものだった。むしろ、醜いと見なされたもの。それが、それまでの美とは違う新たな美として自己主張を始め、美として受け入れられる。
そうした美の源流にあるのが、ボードレールの美学だといえる。

2021年4月9日のQuotidienでは、アンブル・シャリュモーのプレゼンテーションがあり、次にフランスの文学研究者として一般にもよく知られた学者アントワーヌ・コンパニョンのインタヴューが放送された。

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