ペロー 巻き毛のリケ Perrault Riquet à la Houppe 変身を可能にするものは何か? その4

リケからのプロポーズを受け入れることで、王女はエスプリを手に入れ、彼女の会話も洗練されたものとなった。その変化は、宮廷に戻った時、人々をひどく驚かせる。

 Quand elle fut retournée au palais, / toute la cour ne savait / que penser d’un changement / si subit et si extraordinaire : / car, / autant qu’on lui avait ouï dire / d’impertinences / auparavant, / autant lui entendait-on dire / des choses bien sensées / et infiniment spirituelles. / Toute la cour en eut une joie /qui ne se peut imaginer ; il n’y eut que sa cadette / qui n’en fut pas bien aise, / parce que, / n’ayant plus / sur son aînée / l’avantage de l’esprit, / elle ne paraissait plus / auprès d’elle / qu’une Guenon / fort désagréable.

彼女が宮殿に戻ると、宮廷全体が、これほど突然で、これほど驚くべき変化を、どのように考えていいのかわからなかった。なぜなら、人々はこれまで彼女が愚かなことを言うのを数多く聞いてきたのだが、今度はそれと同じ位、とても理に適い、限りなく才知に富んだことを言うのを聞くようになったからだった。そのために、宮廷全体は想像できないほど大喜びした。妹だけがそれを嬉しく思わなかった。というのも、これからは姉に対してエスプリがあるという優位を持たないので、姉のそばにいると、もはや非常に感じの悪い猿にしか見えなかったからだ。

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ペロー 巻き毛のリケ Perrault Riquet à la Houppe 変身を可能にするものは何か? その3

リケが姉に逢い、最初に口にしたのは彼女の美しさ。としたら、次に話題にするのは、彼女の2つ目の特色、つまり愚かさということになる。

では、愚かさについて話ながら、彼女に気に入られるためにはどうしたらいいのだろう?

« La beauté, / reprit Riquet à la Houppe, /est un si grand avantage / qu’il doit tenir lieu de tout le reste, / et, quand on le possède, /  je ne vois pas / qu’il y ait rien / qui puisse nous affliger beaucoup.
— J’aimerais mieux, / dit la princesse, / être aussi laide que vous, / et avoir de l’esprit, / que d’avoir de la beauté / comme j’en aies, / et être bête / autant que je le suis.
— Il n’y a rien, / Madame, / qui marque davantage / qu’on a de l’esprit / que de croire n’en pas avoir, / et il est de la nature de ce bien-là / que, / plus on en a, / plus on croit en manquer.
— Je ne sais pas cela, / dit la princesse ; / mais je sais bien / que je suis fort bête, / et c’est de là / que vient le chagrin / qui me tue.

「美しさは」と巻き毛のリケが言った。「大変に大きなアドヴァンテイジなので、他の全てのものの代わりになるに違いありません。人がそのメリットを持っている時には、私たちをひどく苦しめるほんの僅かなことも、あるとは思えません。」
「私にとって好ましいのは」と王女は言った。「あなたと同じように醜くてもいいので、エスプリを持つことです。私が持っているような美しさを持ち、今の私がそうであるように愚かであるよりも、です。」
「人がエスプリを持っていることをしるすものとして、自分がエスプリを持っていないと思うことほど確かなことは何もありません。エスプリを持っていればいるほど、それが欠けていると思うことこそ、エスプリという良きものの性質なのです。」
「私にはそんなことはわかりません。」と王女は言った。「とにかく、自分がひどく愚かだということはわかっています。そのために、ひどく悲しく、死んでしまいたいほどなのです。」

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ペロー 巻き毛のリケ Perrault Riquet à la Houppe 変身を可能にするものは何か? その2

リケ王子と2人の王女の属性を確認しておこう。
リケ:外見は醜いが、多くのエスプリを持つ。+ 愛する人にエスプリを与えることができる。
長女:外見は美しいが、エスプリはゼロ。+ 気に入った人を美しくすることができる。
次女:外見は醜いが、多くのエスプリを持つ。

この三人がどのような関係になっていくのだろう?

前回と同様に、文章にスラッシュを入れ、意味の切れ目を示していく。
前から読み、日本語を介さずに意味を理解するコツを習得すると、フランス語をフランス語のままで理解できるようになる。

 A mesure que / ces deux Princesses devinrent grandes, / leurs perfections crûrent aussi avec elles, / et on ne parlait partout / que de la beauté de l’aînée / et de l’esprit de la cadette. / Il est vrai aussi / que leurs défauts augmentèrent beaucoup / avec l’âge. / La cadette enlaidissait / à vue d’œil, / et l’aînée devenait plus stupide / de jour en jour. / Ou / elle ne répondait rien / à ce qu’on lui demandait, / ou / elle disait une sottise. / Elle était avec cela / si maladroite / qu’elle n’eût pu ranger quatre Porcelaines / sur le bord d’une cheminée / sans en casser une, / ni boire un verre d’eau / sans en répandre la moitié / sur ses habits.

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ペロー 巻き毛のリケ Perrault Riquet à la Houppe 変身を可能にするものは何か? その1

1697年に発表されたペローの昔話集には、「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」「シンデレラ」等、後の時代に世界中で親しまれる物語が含まれている。
しかし、全ての物語が知られているわけではなく、「巻き毛のリケ(Riquet à la Houppe)」のように、日本ではほとんど知られていない作品もある。

どんな物語かと思い「巻き毛のリケ」を読んでみると、まず、全く昔話らしくない。子供のための話というよりも、気の利いた短編小説という感じがする。
主人公は愛する女性に結婚してくれるよう説得するのだが、実に理屈っぽい。その上、最後のどんでん返しがおとぎ話的ではなく、現代ならごく当たり前の心持ちによる説明。
現代の読者にとって、面白い話とは思えないかもしれない。

しかし、ルイ14世の宮廷社会が時代背景であることを考えると、この作品が大変に興味深く、読者を楽しませ、かつ学ばせてくれることがわかってくる。
全部で10.000字程度の長さがあるので、何回かに分けて、少しづつ、全文を読んでみよう。

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口に心地よいフランス詩 ヴェルレーヌ  « À Clymène »

日本語でも、フランス語でも、詩では音楽性が重視され、耳に気持ちのいい詩は、日本語でもフランス語でも数多くある。
では、口に気持ちのいい詩はどうだろう? 声に出して読むと、口が気持ちいいと感じる詩。

言葉を発声する時、日本語では口をあまり緊張させないが、フランス語では口を緊張させ、しっかりと運動させる。
そのために、詩の言葉を口から出した時、とても気持ちよく感じられる詩がある。
その代表が、ポール・ヴェルレーヌの« À Clymène ». 声を出して詩句を読むと、本当に口が気持ちよくなる。
https://bohemegalante.com/2019/03/05/verlaine-a-clymene/

実際に詩を声に出して読む前に、口の緊張について確認しておこう。

日本語を母語とする者にとって、日本語とフランス語の口の緊張の違いが一番よくわかるのは、「イ」の音。
「ア・イ」といいながら口を意識すると、口の形がそれほど変わらず、ほとんど力が入っていないことがわかる。
それに対して、フランス語の[ i ]では、口に力を入れ、思い切り横に引っ張る。とても力が入り、緊張している。
テレビでアナウンサーが話すのを見る時、口が真一文字になっていることに気づくことがあるほど。

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ヴォルテール 『哲学書簡』 啓蒙主義の出発点  

18世紀を代表する文学者、哲学者といえば、ヴォルテールの名前が最初に挙げられる。
1694年に生まれ、1778年に83歳で亡くなるまで、波瀾万丈の人生を送りながら、演劇、詩、小説、哲学、歴史書、政治的啓発文書、日記等、様々な分野の著作を手がけた。

ヴォルテールの思想を一言で言えば、理性による現実の検証によって真理を知ろうとする姿勢。
現実主義者であり、人間の幸福は、五感を使い、現実に生きる中で得られるものと考える。宗教的な制度が課す束縛を嫌い、自由を第一に考える。
ヴォルテール自身が言ったのではないが、彼の言葉として流通している、「私はあなたの言うことに同意しない。しかし、あなたがそのように発言する権利は死んでも守るつもりだ。」という言葉は、彼の姿勢を象徴している。

簡単に彼がどんな人生を送ったのか、振り返っておこう。

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文学作品の読み方 中原中也の詩を通して

Auguste Renoir, La liseuse

文学は必要か?と問われれば、現代こそ文学作品を「読む」ことが必要な時代はない、と答えたい。
ただし、小説、詩、戯曲などを読むには、それなりの読み方を学ぶ必要がある。

文学作品を読む際、どのように読むかは読者の自由に任されていて、自由な感想を持ち、自由に自分の意見を持つことができるという前提があり、決まった読み方があるとは考えられていない。

自由に読むという作業は、多くの場合、読者の世界観を投影している場合が多い。作品の中からいくつかの箇所を取り上げ、それに対して自分の思いを抱き、思いを語るのが、一般的な傾向だといえる。一人一人の読者の感想こそが重要だと考えられることもある。

しかし、その場合には、どの作品を読んでも、結局は同じことの繰り返しになってしまう。というのも、作品を通して読んでいるのは、読者の自己像だから。
あえて言えば、文学が好きな人間には自己に固執しすぎるきらいがあり、作品に自己イメージ、しばしば性的コンプレクスを投影することも多い。

ソーシャル・メディアで発言される内容、そして、発言の読まれ方は、その延長だと考えることもできる。
根拠を問うことなく、自分の信じたい内容を信じる。違う意見があれば、フェイク・ニュースと言う。
自己イメージに合ったものを信じ、そうでないものは切り捨て、時には断罪する。

文学作品は、客観的な情報を伝えるものではないために、読者の主観が重要だとする考え方は強い。しかし、そうした読み方は、ソーシャル・メディアへの接し方とほとんど変わらない。

文学作品を読む時にも、それなりの作法がある。
その作法を学ぶことで、自己イメージを作品に投影するのではない読み方を身につけることができるだろう。
そして、それこそが、現代社会において必要とされる情報受信の方法だといえる。

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モンテスキュー 『ペルシア人の手紙』 新しい時代精神の確立

モンテスキューは1689年に生まれ、1755年に死んだ。
その時代には、1715年のルイ14世の死という大きな出来事があった。
大王の死後、オルレアン公フィリップの執政時代(1715-1723)、次いでルイ15世が1723年に国王としての実権を握るといった政治の動きがあった。

それと同時に、時代精神も大きな転換期を迎えていた。
ルネサンスから17世紀前半にかけて成立した合理主義精神が主流となり、神の秩序ではなく、人間の秩序(物理的な現実、人間の感覚や経験)に対する信頼が高まっていた。

そうした時代の精神性は、18世紀前半に生まれたロココ美術を通して感じ取ることができる。
そこで表現されるのは、微妙で繊細な細部の表現であり、見る者の「感覚」に直接訴えてくる。17世紀の古典主義芸術の壮大さ、崇高な高揚感に代わり、ロココ芸術では、軽快で感覚的な魅力に満ちている。
非常に単純な言い方をすれば、神を崇めるための美ではなく、現実に生きる人間が幸福を感じる美を追求したともいえる。

モンテスキューは、17世紀の古典主義的時代精神から啓蒙の世紀と呼ばれる18世紀の時代精神へと移行する過程の中で、新しい時代精神の確立を体現した哲学者・思想家である。

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小林秀雄の語る中原中也 言葉に触れる体験としての文学

私たちが最初に文学作品を読むのは、多くの場合、小学校での授業だろう。そこで、どこが好きとか、どこが面白かったとか尋ねられ、感想文を書かされたりする。
中学や高校になれば、作者の思想を考えたり、心情を推察したりし、それについての自分の考えを言わされたりもする。
そんな時、「自由に解釈していいと言いながら、正解が決まっている」という不満を抱いたりすることもある。

こうした読み方をしている限り、文学を好きになるのはなかなか難しい。というのも、文学作品に接する第一歩はそこにはないから。

では、作品と読者が触れ合う第一歩はどこにあるのか?

読者が眼にするのは文字。文字の連なりを辿っていくと、理解の前に、感触がある。比喩的に言えば、読書とは、「見る」よりも先に「触れる」体験だといえる。
その「感触」は「理解」と同時に発生しているのだが、多くの場合、「理解」だけが前面に出て、「感触」は意識に上らないままでいる。

その「感触」は決して感想ではない。むしろ実際の「触覚」に近く、ほとんど身体感覚だといえる。

中原中也の死に関して小林秀雄が書いた文章を読み、言葉の運動を体感してみよう。

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