ネルヴァルの美学 Esthétique de Gérard de Nerval 6/6 「私」の役目

ネルヴァルは、「オーレリア」の語り手に、「私の役目は、神秘主義的カバラの術で、宇宙の調和(ハーモニー)を回復させること」だと語らせたことがある。
精神の混乱に由来するらしい数多くの夢幻的な映像を描いた後、こうした主張を目にすると、ネルヴァルは誇大妄想的な狂気に取り憑かれていたのではないかと思いがちになる。

その一方で、彼の筆から流れ出てくる文章は穏やかで、美しい。しかも博識で、膨大な知識を前提とする数多くの記述が見られる。そして、ポエジーを強く感じさせる。

その二つの傾向は決して矛盾するものではない。
ネルヴァルが試みたのは、「人間の魂の研究」。
魂は謎に満ち、自分でもわからないことがたくさんある。心の思いはしばしば混乱する。そこに「調和(ハーモニー)」を回復させるのが「私の役目」だと意識したとすれば、それは決して馬鹿げたことではない。
しかも、ハーモニーを音楽的な次元で捉えれば、星と星が動くことで奏でられる「天球の音楽」とも捉えられるし、調和の取れた心地よい調べともいえる。言葉のハーモニーは、ポエジーを生み出す源泉となる。

ここでは、ネルヴァルがどのように「私の役目」を果たしたのかを見ていこう。

続きを読む

ネルヴァルの美学 Esthétique de Gérard de Nerval 5/6 変容する美

ネルヴァルの美学のベースは、若い頃に親しんだドイツの詩(バラード)が発散する「超自然主義」と、16世紀フランス詩の持つ「音楽性」。
「超自然主義」に関しては、現実と超現実とを強く対比させることで、現実を超えた世界への想いをより強くする。
「音楽性」に関しては、フランスの古い民謡からも多くを吸収すると同時に、「何を」ではなく「どのように」に重きを置き、アレンジに創作と同じ価値を見出す。

こうした美学を展開したのが、『東方紀行(Voyage en Orient)』に収められた「朝の女王と精霊たちの王ソリマンの物語(Histoire de la Reine du matin et de Soliman, prince des génies)」。その作品は建築家アドニラムを主人公にした芸術家神話ともいえ、ネルヴァルは美学について詳細に語っている。

その後、「塩密売人(Les Faux Sauliers)」において、「私」を語りの中心に据え、抒情性を生み出す文体を開発、晩年の傑作を生み出していく。

ここでは、アドニラムを中心に描かれる三人称の美から、「私」の主観を交えた美への変遷を辿ることにする。

続きを読む

ネルヴァルの美学 Esthétique de Gérard de Nerval 4/6 幻滅からポエジーへ

ネルヴァルは現実に直面すると、しばしば幻滅を感じる。子供時代から温めてきた夢が、現実を知ることで粉々になってしまうと言う。
それにもかかわらず、彼は常に現実に起こる出来事に興味を持ち、ヨーロッパだけではなく、地中海の向こう側の国々へも旅行をした。
そして、現地で見聞きしたことをもとにして紀行文を書いた。
実際、1840年代のネルヴァルの執筆活動の中心は劇評と旅行記だった。

なぜ幻滅をもたらす現実にあえて直面し、夢の世界を壊してしまうのか?

ネルヴァルは、というか、彼が生きたロマン主義の時代は、基本的にプラトニスム的思考を基盤としていた。
現実世界では、全てのものが時間の流れと共に消滅してしまう。
その儚さに対して、永遠に続く存在を求めるのがロマン主義的心情。
永遠の存在を、プラトンのイデアのように天上に置くこともあれば、心の中に置くことも、異国に置くことも、過去に置くこともあった。狂気や麻薬によって引き起こされる錯乱にさえ、現実と対立する(一瞬の)永遠を求めた。

そうした中で、ネルヴァルの戦略は、現実への失望感を大きくすればするほど、現実に属しないもの、彼が好んだ言葉を使えば、「超自然主義(surnaturalisme)」、「宗教感情(sentiment religieux)」が魅力を増すというものだった。

続きを読む

ネルヴァルの美学 Esthétique de Gérard de Nerval 3/6 「私」のポエジー

ネルヴァルにはオリエントやドイツ、オランダなどに関する紀行文が数多くあり、多くの場合、「私」を主語にした一人称の文を書いてきた。

1850年になると、訪問先は外国ではなく、フランス、しかも彼が幼年時代を過ごしたヴァロワ地方になる。
そして、同時代の社会の出来事や風物だけではなく、子ども時代の思い出を語り始める。

思い出を語ることは、旅行先での自分の体験を語る以上に、自分の内面を語ることになる。
そして、そのことが、ネルヴァル的「私」のポエジーを生み出すことに繋がっていく。

ネルヴァルにおいて、「私」について語ることで、どんな風に詩情が生まれるのか?
そのメカニスムを、1850年に発表された「塩密売人たち(les Faux-Saulniers)」を通して跡づけてみよう。
(その作品は『火の娘たち』に収められた「アンジェリック」にかなりの部分が再録されているので、ある程度までは翻訳で読むことが可能。)

続きを読む

ネルヴァルの美学 Esthétique de Gérard de Nerval 2/6 アレンジの美学

ジェラール・ド・ネルヴァルは一度だけ「美学(esthétique)」という言葉を使ったことがある。
その美学とは、「アレンジ(arrangement)」に価値を置いたもの。彼の美学では、アレンジが「構成(composition)」と同列に置かれる。

アレンジとは、本来、配置や配列をすること。そこから発展して、すでに存在する原型の配置や配列に手を加え、最初とは違う雰囲気に作り替えることを意味する。
日本語でも、音楽に関しては、原曲をアレンジするといった表現がしばしば使われる。

ネルヴァルの考えで興味深いのは、アレンジ(編曲)と創作や作曲を同じものと見なすことにある。
言うなれば、編曲した曲を、原曲とは別の、新しい曲と見なす。
独創性という視点から見れば、盗作を堂々と認めることになってしまう。

ネルヴァルは、アレンジの美学を通して何を考え、どのような作品を生み出そうとしていたのだろう。

続きを読む

ネルヴァルの美学 Esthétique de Gérard de Nerval 1/6 音楽性と超自然主義 

ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)は、ユーモアに富んだ皮肉屋。しかも、恥ずかしがり屋で、自分について語る時でも、面白おかしい演出を施して、なかなか本心を掴ませない。

最後は、パリの場末にあった安宿屋の窓で首を吊るという劇的な場面を準備し、死後のネルヴァルのイメージに大きな影響を与えた。
実際、首吊り自殺がセンセーショナルなニュースになり、夢見がちで現実を顧みない作家だったとか、一人の女性への失恋のために狂気に陥り、そのことが彼の作品を決定付けたとか、色々なことが言われた。ザリガニに紐をつけ、犬のように公園を散歩していたとか・・・。
その余波は現在でも続き、ネルヴァルの詩や散文作品は、夢、理想の女性の喪失による狂気、神秘主義といったレッテルを貼られることが多くある。

マルセル・プルーストとの関係が取り上げられることもある。意図しない時にふと湧き上がる思い出が作品世界を形成するという創作方法が『失われた時を求めて』の原型であるとされ、プルーストの先達という位置づけをされる。そんな時、ネルヴァル作品の価値が真正面から取り上げられることはほぼない。

全てはネルヴァルが自死の演出を暗い場末でしたことが原因。そう言ってしまえばそうかもしれない。
2020年に代表作の一つである『火の娘たち(Les Filles du feu)』が、野崎歓さんの翻訳で岩波文庫から出版されたが、今までと変わらず、複雑でわからないとか、叶えられない夢を追う男の幻想的で夢幻的な話として読まれてしまう。

しかし、それでは、ネルヴァルはいつまでたっても同じ読み方しかされない。彼が生涯をかけて作り出した作品の意義も、美しさも、埋もれたままになってしまう。

少しでもネルヴァルが試みたことに接近するために、ここでは彼の美学について辿ってみることにする。

続きを読む

ボードレール ティルソス(聖なる杖) Charles Baudelaire Le Thyrse フランツ・リストに捧げる詩学

「ティルソス(聖なる杖 Le Thyrse)」は、1863年12月10日、『国内・国外評論(Revue nationale et étrangère)』に掲載されたシャルル・ボードレールの散文詩。
ピアニスト、作曲家、指揮者であるフランツ・リストに捧げられ、同時に晩年のボードレールの詩学を歌っている。

ワーグナー好きのボードレールにとって、ドイツのワイマールで行われた「タンホイザー」の初演で指揮棒を握ったリストは、敬愛する音楽家だったに違いない。

「ティルソス(聖なる杖)」では、オーケストラを自由自在に操る指揮棒と、ディオニュソス(バッカス)の持つ聖なる杖(ティルソス)とを重ね合わせ、忘我的陶酔(extase)の中で感知する美(Beauté)について、散文のシンフォニーが奏でられる。

Le Thyrse
À Franz Liszt

 Qu’est-ce qu’un thyrse ? Selon le sens moral et poétique, c’est un emblème sacerdotal dans la main des prêtres ou des prêtresses célébrant la divinité dont ils sont les interprètes et les serviteurs. Mais physiquement ce n’est qu’un bâton, un pur bâton, perche à houblon, tuteur de vigne, sec, dur et droit. Autour de ce bâton, dans des méandres capricieux, se jouent et folâtrent des tiges et des fleurs, celles-ci sinueuses et fuyardes, celles-là penchées comme des cloches ou des coupes renversées. Et une gloire étonnante jaillit de cette complexité de lignes et de couleurs, tendres ou éclatantes.

続きを読む

ランボー 花について詩人に伝えること Arthur Rimbaud Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs 5/5 地獄(鉄)の世紀の詩

第5セクションは第4セクションに続き、新しい詩を推進する言葉がさらに重ねられる。
そうした中で、2つのセクションの違いは時代性の有無にある。

前のセクションでは語られた内容は、非時間的、非空間的で、最後のアフフェニード合金だけがランボーの時代を思わせるものだった。
今度のセクションになると、具体的な固有名詞が出てきたり、現代(=19世紀後半の現代)を思わせる記述が多く使われる。
そして、アルシッド・バヴァは自分たちの現代を、「地獄(鉄)の世紀」と呼ぶ。

続きを読む

ランボー 花について詩人に伝えること Arthur Rimbaud Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs 4/5 合金ナイフを腐食させる煮込み料理を出せ

第4セクションからは、とうとう、新しい詩とはどういうものであるべきか、詩人に伝えることになる。
その際、アルシッド・バヴァは、「言え(dis)」「クソをかぶせろ(incague)」「見つけろ(trouve)」「料理を出せ(sers)」と続けざまに命令を下す。

他方で、何を言えと言うのか、何を見つけろと言うのか、命令の内容は定かではない。言葉が意味をなさない!と思われることが多くある。

それこそが、アルシッド・バヴァの狙いだ。
彼は新しい詩の世界を目指し、現実の再現をベースにした言語世界の破壊を目指している。
詩の中で生成する世界は、現実の素材が使われてはいるが、しかし現実から自立した新しい世界。

読者に求められるのは、すでに知っている言葉の慣用的な意味を探し、それが見つからないと頭を抱えるのではなく、未知の世界を経験すること。

未知の世界の解釈は読者に委ねられている。理解不能と匙を投げる必要はない。
アルシッド・バヴァが息せき切って続ける命令のエネルギッシュな勢いを感じながら、音の流れについていくだけでいい。

続きを読む

ゾラとマネ Émile Zola et Édouard Manet 絵画の生を求める新たな眼差し

1866年、エミール・ゾラは、「レヴァンヌマン(L’Événement)」という日刊紙で、その年に開催された美術サロンの批評を担当し、サロンのあり方や受理された絵画を徹底的に批判した。
その一方で、サロンに落選したエドワード・マネの「笛を吹く少年(Le fifre)」等を激賞し、その結果、サロン評の連載を中断せざるをえなくなった。

その理由を知るために、まず、ゾラが批判したアカデミー派の絵画とマネの絵画を比較してみよう。

続きを読む