ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 読み方の提案 その1

「酔いどれ船」の第1−14詩節、56行の詩句を読み、瑞々しさや素晴らしさを感じるだけではなく、難しさを感じているかもしれない。分からない、という感覚。
そこで、旅の中間地点で一度船を止め、この詩の読み方について、いくつかの提案をしておきたい。

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ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その4 疾走する言葉たち 

大海原の牛の群れとマリア

第10節が幸福感を漂わせていたとすると、第11詩節では岩礁が現れ、大海原も喘ぎ、航海の困難が感じられる。

第11詩節

J’ai suivi, des mois pleins, pareille aux vacheries
Hystériques, la houle à l’assaut des récifs,
Sans songer que les pieds lumineux des Maries
Pussent forcer le mufle aux Océans poussifs !

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ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その3 見者のヴィジョン

第6−7詩節において、「ぼく=酔いどれ船」は「海という詩」を航海していることが明かされた。そこで示されたのは、新しいポエジーの定義。錯乱とリズムを中心に、青を基調として赤茶色が配色された。

第8詩節から第10詩節になると、「見る」という言葉を中心に、「ぼく=酔いどれ船」が航海する間に見たと思われるものが描かれる。

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ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その2 詩の大海原

「詩は絵画のように」から詩の大海原へ

Willam Turner, Calais Pier

第1−2詩節では、酔いどれ船(私)が、「大河」を自由に下ることになったいきさつが明らかにされた。

第3−5詩節になると、船は河から海に出、海岸近くから沖へと流されていく。

ランボーはその様子をナレーションで語るのではなく、イメージを連ね描いていく。

その手法は、ut pictura poesis(詩は絵画のように、絵画は詩のように)と言われる、詩に関するローマ時代からの考え方を思わせる。

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ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その1 自由への旅立ち

ランボーの「酔いどれ船」は傑作と言われ、パリのサン・シュルピス教会のすぐ横にある壁には、100行の詩句全部が書かれている。

しかし、意気込んで読んでみても、難しくて理解できないところが多い。
この詩のどこに、多くの読者を惹きつける魅力があるのだろう。

今から、4行詩が25節続く詩の大海原に、船を漕ぎだしてみよう。

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ボードレール 「酔いたまえ」 Baudelaire « Enivrez-vous » 美のエクスタシー

ボードレールの散文詩「酔いたまえ」を、イタリア生まれの俳優で歌手のセルジュ・レジアニがささやく。
こほほどセクシーな朗読が他にあるだろうか。

ボードレールはとても美しいことを書いていると言った後、レジアニは、詩人の詩句を自分の言葉のように語り始める。
しかも、最後には、詩句にはない一言を加えてしまう。あたかも自分の詩であるかのように。

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ネルヴァル 「祖母」 Nerval « La grand’mère » 詩句の音楽性と記憶の作用

Corot, Souvenir de Mortefontaine

おばあさんが死んで3年。葬儀の時にはみんな悲しんでいた。でも、ぼくは一人だけ、びっくりするばかりで、みんなと同じ反応が示せなかった。

三年後の今、おばあさんの記憶はみんなの中で色あせている。
しかし、ぼくの中では、記憶が深く刻み込まれ続けている。


このように語る「祖母」という小オードは、ネルヴァルの記憶作業がどのようなものか、わかりやすく伝えている。
と同時に、ネルヴァルが詩の音楽性を重視していたことも教えてくれる。

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