ボヴァリー夫人の音楽 ダヴィッド・カデゥシュのピアノ・ソロ

フロベールの『ボヴァリー夫人』では音楽が話題になることはあまりないが、ダヴィッド・カドゥシュ(David Kadouch)は、主人公エンマが聞いたかもしれない曲を空想し、ピアノ・ソロのCD「ボヴァリー夫人の音楽(Les musiques de Madame Bovary)」を制作した。

カドゥシュは自らの意図をこんな風に記している。
« J’ai voulu imaginer la musique qu’Emma Bovary aurait pu écouter pendant sa courte vie, en invoquant les femmes compositrices souvent oubliées de l’époque de Flaubert. Avec cette question en suspens : le destin, le suicide d’Emma Bovary aurait-il pu être évité, si ces créatrices avaient eu la gloire qu’elles méritaient ? » 

この言葉からも推測できるように、CDの中では、ショパンやリストに並んで、あまり名前の知られていない女性の作曲家たち —— ファニー・メンデルスゾーン、ポリーヌ・ヴィアルド、ルイーズ・ファランク、クララ・シューマン —— の曲が取り上げられている。

ギュスターヴ・フロベール 『ボヴァリー夫人』 市民社会の生存競争とエンマの「黒い怒り」 新しい現実の創造 3/4

『ボヴァリー夫人』の「現実」は、現実の社会を「再現」した「コピー」ではなく、フロベールが幾何学的な精密さをもって「創造」した「新しい現実」あるいは「もう一つの現実」に他ならない。
それは架空の存在だが、しかし人間の生きる実際の現実の「典型」として、読者に「現実の効果」を感じさせるものになっている。

その効果の大きさ、つまり小説の中に作り出された社会のリアルさは、『ボヴァリー夫人』が公共の秩序を乱すという罪状で裁判にかけられたことによって、それ以上にない仕方で証明されている。
フロベールの言葉に、それだけ力があったということだ。

では、どのような現実が提示されているのだろう?

登場人物たちが生きるのは、19世紀半ばの市民社会。そこを支配するのは資本であり、人々は社会規範を遵守し、良識を持って生きることが求められた。悪徳や情念は偽善によって隠されている。
ロマン主義的魂を体現するエンマは、そうした規範に違反する存在であり、葛藤の末、死に至る。

『ボヴァリー夫人』が、エンマの夫シャルルの学校時代から始まり、薬剤師オメの叙勲で幕を閉じるのは、小説内に広がる市民社会を読者に実感させるために他ならない。

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ギュスターヴ・フロベール 『ボヴァリー夫人』 反リアリズムと現実の効果 新しい現実の創造 2/4  

1849年から51年にかけて中近東を周遊したフロベールは、帰国後すぐに『ボヴァリー夫人』に取りかかり、56年に執筆が終わるまでのほぼ全ての時を小説の完成に費やした。

その時期はフランスにおけるリアリズム芸術の勃興と重なっており、絵画においては、ギュスターブ・クールベが、当時主流だった新古典主義絵画やロマン主義絵画と異なる絵画の描き方を開拓しようとしていた。

フロベールも新しい時代の芸術を模索はしていたが、しかし、リアリズムの芸術観に共感を持つことはなかった。
彼が目指したのは「美」であり、最も心を砕いたのは、小説のテーマとして日常的な素材を取り上げ、ごく普通の人々の凡庸な会話を書きながら、どのようにして「美」として成立させるかということだった。
そのために、フロベールは一文字一文字の選択に時間をかけ、書き終わった原稿に何度も手を入れ、小説全体が詩に匹敵するような完璧な構造物になるように努めた。
『ボヴァリー夫人』はその最初の果実だった。

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「ボヴァリー夫人は私(Madame Bovary, c’est moi)」は本当にフロベールの言葉?

『ボヴァリー夫人』に関する文章を読んでいると、フロベールが「ボヴァリー夫人は私(Madame Bovary, c’est moi.)」と書いたとか、質問に答えて言ったと、至る所に書かれている。しかし、はっきりした根拠が示されることはあまりない。

ルーアン大学にあるフロベール・センターを統括するイヴァン・ルクレール教授が、インタヴューの中で、その言葉の由来について語っている。

フロベール『ボヴァリー夫人』 文章の音楽性

2021年は、1821年生まれたのギュスターヴ・フロベールの生誕200年の年だった。そこで数多くの催しが開催されたが、一つのテレビ番組の中で、『ボヴァリー夫人』の文章の音楽的な美しさを感じるために俳優が抜粋を朗読し、ピアニストがショパンの「 夜想曲 第20番 嬰ハ短調 遺作」 を演奏する場面があった。
こうした例は、フランスでは、詩だけではなく、小説においても、文章の音楽性が重要であることを示している。

フロベール 『ボヴァリー夫人』 Flaubert Madame Bovary エンマとロマン主義

 『ボヴァリー夫人(Madame Bovary)』は1852年から1856年まで書き継がれたが、この時期は、ロマン主義から写実主義、象徴主義、モデルニテへと向かう転換期にあった。

 そうした芸術観の転換を象徴的に表すのが、1857年の『ボヴァリー夫人』と『悪の華(Les Fleurs du mal)』の裁判。フロベールの小説とボードレールの韻文詩集が、公衆道徳に反するという理由で裁判にかけられ、詩集の方は有罪になった。

 興味深いことに、二人の作家は、出発点では19世紀前半に主流だったロマン主義に深く傾倒していた。その後、ロマン主義を内部から解体することで、新しい芸術観を創造していった。

ボードレールに関しては、美術批評「1846年のサロン」の中で、「ロマン主義とは何か?」という問いかけを行い、そこからモデルニテのコンセプトとなる概念を発展させた。
https://bohemegalante.com/2020/08/29/baudelaire-heroisme-de-la-vie-moderne-salon-1846/

フロベールは、『ボヴァリー夫人』の中で、エンマの少女時代がロマン主義一色だったことを示し、その中に皮肉な視線を溶け込ませる。そのことによって、ロマン主義文学の概略を素描し、その上でほころびを作り出し、エンマの運命がロマン主義の行き着く先と重なり合う前兆とする。

注意しておきたいのは、フロベールの小説家としての姿勢。
彼は、語り手として物語の中に介入し、登場人物の心の中や様々な状況を説明することをほとんどしない。ただ淡々と出来事を物語っていく。
出来事の意味を読み取るのは読者の役割なのだ。
ただし、時に、こっそりと彼の視点を示し、読者の読み方に対して指針を示すことがある。

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フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 3/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 3 / 3

ロドルフと会った翌日、シャルルは庭のブドウ棚に行き、ベンチに座る。
その時の様子を、フロベールは淡々と描写する。花が香り、虫が飛び回り、空は青い。穏やかな一日。
そんな中、シャルルはある想いに捉えられる。

Le lendemain, Charles alla s’asseoir sur le banc, dans la tonnelle. Des jours passaient par le treillis ; les feuilles de vigne dessinaient leurs ombres sur le sable, le jasmin embaumait, le ciel était bleu, des cantharides bourdonnaient autour des lis en fleur, et Charles suffoquait comme un adolescent sous les vagues effluves amoureuses qui gonflaient son cœur chagrin.

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フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 2/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 2 / 3

シャルルの心はどうしてもエンマから離れることができずにいる。医者としての仕事も手に付かず、生活費もままならなくなる。最後には、診療に向かう時の馬車を曳く馬まで売るところまできてしまう。

Un jour qu’il était allé au marché d’Argueil pour y vendre son cheval, — dernière ressource, — il rencontra Rodolphe.

ある日、彼はアルギュイユの市場に行き、馬を売ることにした。ーー それが最後の収入源だった。ーー 彼はロドルフに出会った。

ロドルフは、エンマの不倫相手。シャルルは、彼の手紙をエンマの手紙入れの中で見つけ、妻の裏切りを確信したのだった。
そのロドルフに会ったのだ。
フロベールはここで、« Il rencontra Rodolphe.»とだけ書く。これほど単純な文もなく、その単純さが出会いのインパクトの大きさを印象付ける効果を発揮する

シャルルはどんな態度を取るのだろう。

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フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 1/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 1 / 3

『ボヴァリー夫人』の中で、シャルルは可哀想な役割を担わされている。
彼はどこまでも妻のエンマを愛し、彼女をいたわる夫として行動する。
それに対して、エンマはロマン主義的な空想に似つかわしくない夫シャルルを退屈だと見なし、レオンやロドルフとの不倫に走る。挙げ句の果てに、毒を飲み、死を選ぶ始末。

そんなエンマの視線を通して小説を読む読者も、シャルルを退屈で、ダサイ夫と思い込む。多くの批評家も、シャルルは平凡な町医者で、歩道のように平板な会話しかできないと言う。

しかし、『ボヴァリー夫人』の冒頭はシャルルの子供時代のエピソードから始まる。
https://bohemegalante.com/2019/06/29/flaubert-madame-bovary-incipit-1/
結末でも、シャルルの死の直前に行動に焦点が当てられている。
エンマの死で小説は終わらない。

そこでふと思う。
エンマの目を通したシャルルは平凡でさえない夫だが、本当にそんな男なのだろうか、と。

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フロベール『ボヴァリー夫人』 レアリスムを超えて

フロベールの『ボヴァリー夫人』は、レアリスム小説の傑作と言われる。しかし、その素晴らしさはなかなか理解されないらしく、フランスの高校の先生たちも教えるのに苦労しているらしい。
あらすじだけ追えば、平凡な夫に愛想を尽かした妻が、不倫と浪費の末に、自殺する話。しかも、描写が長く、話がなかなか進まない。なぜこれが傑作なのだろうと思う人も多いだろう。

そこで、アウエルバッハの『ミメーシス』の一節を参考にしながら、レアリスムとは何か、『ボヴァリー夫人』はその中でどのような特色があり、素晴らしさはどこにあるのか、探っていくことにする。

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