エドゥアール・マネ 「エミール・ゾラの肖像」  物と人を等しく扱う絵画 — 何を措いても見ること —

私たちは花を見ると花だと思うし、人間を見れば人間だと思う。しかし、そのように認識することで、一本一本の花、一人一人の人間の具体的な姿に注目しなくなるようである。
それに対して、画家の目は、それぞれの対象の形態や色彩に注意が引かれるらしい。

エドゥアール・マネの「エミール・ゾラの肖像」に関して、画家オディロン・ルドンの言った言葉が、そのことをはっきりと教えてくれる。

ルドン

ルドンはこの絵のエミール・ゾラを見て、「人間の性格の表現であるよりも、むしろ静物画」だと感じる。
私たちは直感的に、人間の形態があればそれを人間だと思う。しかし、画家はそれとは違う目を持つため、人と物の区別の前に、形と色に敏感に反応する。

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エドゥアール・マネ 「フォリー・ベルジェールのバー」 現前性の絵画

エドゥアール・マネ の 「フォリー・ベルジェールのバー」 は絵画の専門家だけではなく、哲学者や文学者たちの分析対象になることも多く、驚くほど数多くの言葉が費やされてきた。
その理由の一つは、カウンターの中央にいる女性と、後ろにある大きな鏡に写った彼女の背中や男性の位置が不自然なところにある。

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絵画を見る目のレッスン 2/2

一人の画家でも、キャリアを通して、描くタッチはかなり変化する。画家の気質が絵画の根底を貫いているとすると、時代による様式の変化等に応じて、対象は同じだとしても、絵画が生み出す印象はかなり違うこともある。

以下の二枚の静物画、一方は初期に、他方は後期に描かれたもの。「花」として見るのではなく、「絵具の動き」として見れば、あまりの違いに驚くかもしれない。

画家の名前を忘れ、ただ目の前に展開する絵具の運動として見てみたい。

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絵画を見る目のレッスン 1/2

「見る」ことはごく普通のことでありながら、実はとても難しい。実際には多様なものを見ているのだが、見ているものが何か分かると、そこで終わってしまうことが多い。

次の3枚の絵画は、ほぼ同じ時期に、三人の画家によって描かれた。
(1)と(2)では、同じ時に同じ場所でほぼ同じ対象(母子など)が描かれている。(3)のモデルも同じ女性。

プロの画家がもしモデルを忠実に再現しようとしたのであれば、3枚にそれほど違いはないはずである。しかし、私たちの目は違いをはっきりと捉える。
そのことは、絵画の目的が、写真と違い、ありのままの姿を再現することではないことを示している。「本物そっくり!」と絵の前で驚くことは、誉め言葉にならない。

絵画1枚1枚には特有の表現があり、表現そのものを「見る」ことが、絵画を見ることである。
3枚の絵は同じ表現様式を共有している画家たちによって描かれているために、かなり似ているのだが、しかし三人の画家にはそれぞれのタッチがあり、どこか違っている。
「何が」描かれているか以上に、「どのように」描かれているかを「見る」ことが、私たちの目のレッスンになる。

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ゾラとマネ Émile Zola et Édouard Manet 絵画の生を求める新たな眼差し

1866年、エミール・ゾラは、「レヴァンヌマン(L’Événement)」という日刊紙で、その年に開催された美術サロンの批評を担当し、サロンのあり方や受理された絵画を徹底的に批判した。
その一方で、サロンに落選したエドワード・マネの「笛を吹く少年(Le fifre)」等を激賞し、その結果、サロン評の連載を中断せざるをえなくなった。

その理由を知るために、まず、ゾラが批判したアカデミー派の絵画とマネの絵画を比較してみよう。

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マネ「オランピア」の黒人モデル Qui est la servante noire sur “Olympia”, le tableau de Monet ?

エドゥアール・マネの「オランビア」に描かれた娼婦のモデルがヴィクトリーヌ・ムーラン(Victorine Meurent)であることはよく知られている。

他方、召使いの黒人モデルについては、これまであまり話題になることがなかった。
France 2, 20Hのニュースでは、その黒人モデルについて取り上げている。

https://www.francetvinfo.fr/economie/emploi/metiers/art-culture-edition/qui-est-la-servante-noire-sur-olympia-le-tableau-de-manet_3262351.html