モーパッサン 「脂肪の塊」 小説と日常生活の心理学 2/3

ギ・ド・モーパッサンの中編小説「脂肪の塊」は、1870年の普仏戦争中にノルマンディ地方の一部がプロイセン軍によって占領された状況を背景にして、ルーアンの町から馬車で逃亡する乗客を中心にした人間模様を、リアルなタッチで描き出している。

“脂肪の塊”というあだ名で呼ばる主人公の娼婦は、善良で心優しい。他の乗客たちが食事を持たない時には自分の食べ物を提供するし、宗教心にも篤く、ナポレオン3世の政治体制に対する愛国心も強い。
それに対して、裕福な階級の人々やキリスト教のシスターたちは、娼婦をさげすみ、必要な時には利用し、役目が終われば無視し、彼女の心を傷つける。

ふっくらとした娘を乗客たちが最も必要とするのは、逃亡の途中に宿泊したホテルで、プロイセンの将校から足止めをされる時。彼女が身を任せなければ、馬車は出発できない。しかし、愛国心の強い女性は、敵の兵士の要求を受け入れようとしない。
その時、他の乗客たちにとって、彼女は「生きている要塞」となる。
そこで、どのようにして要塞を陥落させ、脂肪の塊というご馳走をプロイセン兵に食べさせるのか? その戦略を練り、彼女を降参させるための「心理戦」が、この小説の中心的なテーマになる。

このような視点で「脂肪の塊」を概観すると、モーパッサンが、プロイセン軍による占領の現実をリアルに描きながら、それと同時に、人々の心の動きを「心理的な戦い」として浮き彫りにしたという、二つの側面が見えてくる。

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モーパッサン 小説と日常生活の心理学 1/3

ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)は、しばしば自然主義に属する作家と紹介されるが、現実主義的な傾向の小説とは別に、幻想や狂気をテーマにした短中編小説によっても知られている。

多くの場合、現実主義的と幻想的という二つの系列は対立するものと見なされる。しかし、モーパッサンにとって、それらは決して相反するものではなかった。
そのことは、19世紀後半に成立しつつあった新しい学問分野である「心理学」について考えると理解できる。

人間の魂あるいは精神や心の研究は、伝統的に哲学や神学等によって担われてきたが、そうした分野はあくまで思弁的なものだった。
それに対して、実証主義精神が台頭するのに応じて、実験により検証可能な科学的アプローチが模索されるようになる。その結果、19世紀後半、身体反応と心の関連性を考察対象とする学問として、心理学が成立したのだった。

モーパッサンは、こうした思想に基づき、以下の二つの原則を小説の核心に置いた。
1. 現実以上に現実的と感じられる世界を小説の中に作り出す。
2. 登場人物たちの性格や日常の生活環境の絡み合いの中で、彼らの心理を浮かび上がらせる。

現実と感じられる世界の構築(1)は、モーパッサンがしばしば自然主義の小説家と見なされる要因となっている。
人間心理(2)に関しては、生理や環境が心理に及ぼす影響が学問的に認められるとしたら、その逆に、心理が五感に影響を与える様を描くことが、彼の幻想小説の核心となった。

この二つの要素は密接に関連していて、現実の日常生活を描いている小説でも、超自然な現象が恐怖を引き起こす小説でも、中心にあるのは常に人間の「心理」である。

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