ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 5/5 錯乱から昇天へ

告白の最後の部分に至り、愚かな乙女は再び地獄の夫の行動に言及し、その後、彼の言葉をそのまま繰り返す。

  « S’il m’expliquait ses tristesses, les comprendrais-je plus que ses railleries ? Il m’attaque, il passe des heures à me faire honte de tout ce qui m’a pu toucher au monde, et s’indigne si je pleure.
    « ― Tu vois cet élégant jeune homme, entrant dans la belle et calme maison : il s’appelle Duval, Dufour, Armand, Maurice, que sais-je ? Une femme s’est dévouée à aimer ce méchant idiot : elle est morte, c’est certes une sainte au ciel, à présent. Tu me feras mourir comme il a fait mourir cette femme. C’est notre sort, à nous, cœurs charitables… »

 もしあの人があの人の悲しみの数々を説明してくれるとしても、私がそれを理解できるでしょうか、あの人の嘲り以上に? あの人は私を攻撃し、この世で私の琴線に触れる可能性のあるもの全てを、何時間もかけて恥ずかしいと思わせるようします。そして、私が泣くと、腹を立てるのです。
 「ーー ほら、あのエレガントな若者、きれいで静かな家に入っていくだろ。名前はデュヴァルか、デュフールか、アルマンか、モーリス、そんな感じかな。一人の女があの無能なアホをどうしようもなく愛した。で、彼女は死んじまった。今じゃ、天国で聖女になってるだろうよ。お前も俺を死なせることになる、あいつが女を死なせたみたいにさ。それが俺たちの運命なんだ、慈悲の心を持った俺たちのな。」

(朗読は12分50秒から)
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ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 4/5 悲しい楽園

愚かな乙女は、地獄の夫に捉えられた囚人のようだったと語った後、不安を抱えながらも彼女なりに幸福を感じていた様子を口にする。

 « Ainsi, mon chagrin se renouvelant sans cesse, et me trouvant plus égarée à mes yeux, ― comme à tous les yeux qui auraient voulu me fixer, si je n’eusse été condamnée pour jamais à l’oubli de tous ! ― j’avais de plus en plus faim de sa bonté. Avec ses baisers et ses étreintes amies, c’était bien un ciel, un sombre ciel, où j’entrais, et où j’aurais voulu être laissée, pauvre, sourde, muette, aveugle. Déjà j’en prenais l’habitude. Je nous voyais comme deux bons enfants, libres de se promener dans le Paradis de tristesse. Nous nous accordions. Bien émus, nous travaillions ensemble.

「そんな風にして、私の悲しみは絶えずぶり返し、自分の目から見てもますます道を踏み外していきました。ーー 私のことをじっと見つめようとしたかもしれないみんなの目からも、同じように見えたことでしょう、もし私が永遠にみんなから忘れられるという刑を宣告されていなければ! ーー 私はますますあの人の思いやりに飢えていきました。口づけや愛情のこもった抱擁があれば、天国でした。暗黒の天国です。私はそこに入りました。できれば、そこに取り残され、哀れで、耳が聞こえず、口がきけず、目が見えないでいられたらと思いました。そうしたことにはもう慣れていたのです。私には、私たち二人が善良な子供のように見えました。悲しい「楽園」を散歩する自由もありました。私たちはわかり合っていました。とても嬉しくて、一緒に働きました。

(朗読は9分0秒から。)
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ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 1/5 ヴェルレーヌの目を通したランボーの自画像

アルチュール・ランボー『地獄の季節(Une saison en enfer)』の中心に位置する「錯乱(Délires)」前半には、「愚かな乙女(Vierge folle)」と題された散文詩が置かれている。

そこでは、ポール・ヴェルレーヌの目を通して描かれたランボーの自画像が描かれる。
他者の目を通した自画像?

1871年9月、ランボーはポール・ヴェルレーヌの呼びかけに応じて、シャルルヴィルを離れパリに向かう。その時、ランボーは17歳になる直前、ヴェルレーヌは27歳だった。
ヴェルレーヌは結婚して1年しかたっていなかったがランボーに夢中になり、翌1872年の夏から2人は北フランスやベルギーを通り、9月からはロンドンで暮らし始める。
しかし、2人の生活は平穏なものではなく、ランボーは何度かヴェルレーヌと別れようとして、フランスに戻ることもあった。それは、ランボーがヴェルレーヌに書き送った手紙の表現を借りれば、「喧嘩にあけくれ荒れた生活」だった。
その結末は1873年7月に訪れる。ブリュッセルで別れ話をする中で、ヴェルレーヌがランボーをピストルで撃ち、怪我をさせるという事件が起こる。その結果、ヴェルレーヌは約2年間、監獄に収監さることになる。

こうした経過を簡単に辿るだけで、2人の関係の中で、ランボーが男役、ヴェルレーヌが女役だったらしいことが推測できる。

「愚かな乙女」に目を移すと、最初に、地獄の夫(l’époux infernal)が、「地獄の道連れ(un compagnon d’enfer)の告白(la confession)を聞こう。」と話を始める。
次の、その内容が、彼の道連れである愚かな乙女(vierge folle)の打ち明け話(une confidence)として語られる。
夫はランボー、乙女はヴェルレーヌを思わせる。

その告白の中で、愚かな乙女が地獄の夫のことを延々と語り、言葉によって夫の肖像を描くとしたら、それは、ランボーがヴェルレーヌの視線を通して自分の肖像を描いていることになる。

その自画像でとても興味深いのは、ランボーの自己意識を知ることができると同時に、ヴェルレーヌに対する意識も知ることができることである。
ランボーにとって、ヴェルレールは何だったのか? 
そのヴェルレーヌにどのように見られていると思っていたのか?

こうした他者意識と、他者を通して見る自己意識という仕組みは、実は、私たちが自分について考える時の仕組みかもしれない。
そのように考えると、「愚かな乙女」がますます興味深い散文詩に思えてくる。

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口に心地よいフランス詩 ヴェルレーヌ  « À Clymène »

日本語でも、フランス語でも、詩では音楽性が重視され、耳に気持ちのいい詩は、日本語でもフランス語でも数多くある。
では、口に気持ちのいい詩はどうだろう? 声に出して読むと、口が気持ちいいと感じる詩。

言葉を発声する時、日本語では口をあまり緊張させないが、フランス語では口を緊張させ、しっかりと運動させる。
そのために、詩の言葉を口から出した時、とても気持ちよく感じられる詩がある。
その代表が、ポール・ヴェルレーヌの« À Clymène ». 声を出して詩句を読むと、本当に口が気持ちよくなる。
https://bohemegalante.com/2019/03/05/verlaine-a-clymene/

実際に詩を声に出して読む前に、口の緊張について確認しておこう。

日本語を母語とする者にとって、日本語とフランス語の口の緊張の違いが一番よくわかるのは、「イ」の音。
「ア・イ」といいながら口を意識すると、口の形がそれほど変わらず、ほとんど力が入っていないことがわかる。
それに対して、フランス語の[ i ]では、口に力を入れ、思い切り横に引っ張る。とても力が入り、緊張している。
テレビでアナウンサーが話すのを見る時、口が真一文字になっていることに気づくことがあるほど。

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吉田秀和の語るフォーレ「月の光」 ヴェルレーヌ、ドビュシー、中原中也

吉田秀和は、『永遠の故郷 夜』の最初の章で、中原中也の話から始め、ヴェルレーヌへと向かい、ガブリエル・フォーレ作曲の「月の光」について語る。

付録のCDで吉田が選んだのは、ルネ・フレミングの歌。ルネ・フレミングは、アメリカ出身のトップクラスのソプラノで、特に声の美しさで有名だという。

「月の光」の章はこんな風に始まる。

 中原中也にフランス語の手ほどきをしてもらったといっても、それは高校一年のせいぜい一年あまりのこと。その終わりころ、私はヴェルレーヌの詩集の全集を買った。フランス製仮綴じ白表紙の本で、全部で五巻か六巻、十巻まではなかったと思う。この全集は、なぜか当時珍しくないものでいろんな店にあり、私は神保町の古本屋で金五円で買ったのだった。
 中原の詩を知れば、誰だってヴェルレーヌが読みたくなって当たり前。両者の血縁関係は深くて濃厚である。また彼は酔うとよく詩を朗読したが、そういう時はヴェルレーヌの詩の一節であることがよくあり、« Colloque sentimental(感傷的対話)»など終始出てきて、これを読む彼の身振りは今でも思い出せる。ただし、私はこの詩はあんまり好きではなかった。
 逆に好きだった一つが« Claire de lune(月の光)»

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マラルメ 現れ Mallarmé Apparition 悲しみの香りから香り豊かな星々の白いブーケへ

ステファン・マラルメは、フランス語の詩句の可能性を極限にまで広げた詩人と言われている。
「現れ(Apparition)」は1863年頃に書かれたと推測される初期の詩だが、すでに彼の試みをはっきりと見て取ることができる。

「現れ」で使われる詩句は、12音節(アレクサンドラン)で平韻(AABB)。フランス語の詩句として典型的なもの。
伝統的な枠組みをあえて使うのは、フランス詩に親しんだ読者には、6/6のリズムが体に染みついているからだろう。
日本語であれば、5/7のリズムに匹敵する。

フランス詩では、リズムと意味は対応するのが基本。リズムから逸脱した要素は、意味的に強調される。
マラルメはありふれた型を設定し、その内部で様々な詩的技法を駆使することで、多様なリズム感を持つ美しい詩を作り上げた。
「現れ」は、そうした詩人の試みを体感させてくれる。

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メンデルスゾーン、ショパンの「舟歌」とヴェルレーヌのこの上なく美しい詩

ヴェルレーヌが1874年に出版した詩集『言葉なき恋愛(Romances sans paroles)』は、メンデルスゾーンのピアノ曲集『言葉なき恋愛(Lieder ohne Worte)』に由来すると言われている。

メンデルスゾーンのピアノ曲集には、「ベニスのゴンドラ乗りの歌」と題された曲が3つ入っている。
同じように、ベルレーヌの詩集にも舟歌がある。
「クリメーヌに」。
「神秘的な舟歌(Mystiques barcarolles)」という詩句で始められる。

作曲家と詩人を繋ぐものとして、もう一つの舟歌があるかもしれない。
それが、ショパン晩年の曲「舟歌」。フランス語の曲名は、Barcarolle。
ヴェルレーヌが、« Mystiques barcarolles »綴ったとき、メンデルスゾーンだけではなく、ショパンの曲も心に思い描き、二人の舟歌が詩人の内部で鳴り響いていただろう。

そうして出来上がった詩「クリメーヌに」は、ヴェルレーヌの中でも、最も美しい。

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中原中也 「夜更の雨」 ヴェルレーヌの影を追って

中原中也の「夜更の雨」。
ヴェルレーヌの面影に寄せたエピグラフが付けられ、ヴェルレーヌが都市の中を放浪する姿が描かれている。

第一連は、掘口大學の訳でよく知られた、「巷に雨の降る如く」を参照している。
https://bohemegalante.com/2019/07/26/verlaine-ariettes-oubliees-iii/

夜更の雨
          ―― ヱ゛ルレーヌの面影 ――


雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
  と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

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ランボー 「アマランサスの花の列」 Rimbaud « Plates-bandes d’amarantes… » 疾走する想像力と言葉の錬金術

1872年、ランボーはヴェルレーヌと二人、パリから逃れてベルギーに向かう。その旅の間に二人が見た物、感じたことは、ベルギーを対象にした二人の詩の中に定着されている。

ランボーの「アマランサスの花の列」(Plates-bandes d’amarantes…)は、そうした詩の中の一つ。
その詩には、大通りの様子らしいものが描かれているのだが、ランボーの詩の言葉は、現実から飛び立ち、疾走する。

詩としての出来栄えに関しては、それほど高く評価できるものではないかもしれない。しかし、ランボーの詩的想像力の動きを理解するためには、最適の詩だといえる。

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日本語 擬音語・擬態語

日本語の豊かさの一つに、擬音語や擬態語が数多いということがあげられる。雨が降るときの表現として、シトシト、ザーザー、ポツポツ、パラパラ、ショボショボが付け加えるだけで、実感が湧いてくる。

擬音語や擬態語は、動詞や形容詞が表現する状態に具体性を与え、より詳しく、活き活きとした感じを生み出す働きをする。
その理由はどこにあるのだろうか。

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