芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 6/7 失われたもの 永遠なもの

芭蕉と曽良は江戸を出発して以来、歌枕の地を数多く訊ねながら、仙台までやって来る。そして、「おくのほそ道」と呼ばれる小道を通った後、多賀城で壷碑(つぼのいしぶみ)を目にする。
それは多賀城の由来が刻まれた石碑で、歌枕として多くの和歌に詠み込まれたものだった。

壷碑を実際に目にした時の感激を、芭蕉は次のように綴る。

むかしよりよみ置(おけ)る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ川流て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。

芭蕉は、壷碑が「疑いなき千歳の記念」、つまり1000年前から続く姿をそのまま留めているに疑いはないと確信し、これこそが長い旅の恩恵であり、生きていてよかったと痛感し、旅の苦労を忘れるほどに感激し、涙を流しそうになる。

その歌枕が古の時代に詠われた姿のままであるのを前にし、心を深く動かされるのはごく自然なことに違いないが、感激が大きいのにはもう一つの理由があった。

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 1/7 造化の美

松尾芭蕉は、1689(元禄2)年、46歳の時、旧暦の3月27日から9月6日まで、現在の暦であれば5月16日から10月18日までの約5ヶ月をかけて、江戸を発ち、東北地方から北陸地方を回り、最後は岐阜県の大垣に至る、長い旅を行った。

その主な目的は、1689年が平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人である西行法師の生誕500年にあたり、東北と北陸の各地に点在する「歌枕」の地を訪ねることだったと考えられる。

「歌枕」というのは、和歌の中で伝統的に読み継がれてきた地名で、現代で言えば、名所旧跡といった観光名所と考えていいかもしれない。
ただし、現代とは違い、それらの地名にはそれまでに読まれた和歌の記憶が刻み込まれ、例えば、「吉野」と言えば、「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」(西行)などといった句が数多く思い出された。
その連想を通して、実際に吉野山を見たことがなくても、和歌を通して「吉野」を思い描き、時には、その地名からインスピレーションを受けて、自分でも「吉野」を和歌に詠み込む。
そうした伝統は、俳句でも続いていた。

そうした中で、芭蕉は、東北や北陸に数多くある「歌枕」を実際に自分の目で見、実体験から得られた生の情感を言葉によって表現しようとしたのではないかと考えられる。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。」(土芳(とほう)『三冊子(さんぞうし)』)

『おくのほそ道』はその旅に基づいた紀行文であり、実際の旅程と、その間に芭蕉および同行者である曾良(そら)の詠んだ俳句から出来上がっているように見える。
しかし、実はいくつかの虚構が含まれているし、作品全体が中央で分割され、対照的な二つの部分で構成されている。そのことからも、『おくのほそ道』が単なる旅の記録ではないことがわかる。

では、何を目指した書なのか?

芭蕉自身はどこでも使っていないが、弟子たちが芭蕉の俳諧論の中で中心に置いたのは、「不易流行」という概念だった。
「不易」とは永遠に変わらないということ。「流行」は常に変化し、新しくなっていくこと。
その対立する二つの概念が「根源においては一つ」というのが、芭蕉の俳諧論の本質だと考えられている。

弟子によって多少の解釈に違いがあり、「不易流行」という表現が何を意味にしているのか完全に解明されているとは言えないのだが、ここでは、『おくのほそ道』全体を通して、芭蕉自身が俳諧の本質を伝えようとしたのだと考えてみたい。
そのことによって、芭蕉の説く「不易流行」を具体的に知ることにもなるはずである。

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