江戸時代後期の絵画 北斎 広重 酒井抱一 装飾性と写実性 

18世紀後半になると、近代ヨーロッパの絵画の基礎となる遠近法や明暗法が導入され、伝統的に装飾的で造形的だった日本の絵画にも、写実性が付け加えられるようになった。

そうした融合は決して、京都や大阪の伝統的な絵画だけではなく、江戸の浮世絵でも行われた。円山応挙(1733-1795)の「保津川図」と鳥居清長の「三囲の夕立」を見ると、両者ともに、造形性をベースにしながら、リアリティを感じさせる表現がなされていることがわかる。

円山応挙、保津川図
鳥居清長 三囲の夕立

どちらの作品にしても、現実の場面を再現したものではなく、画家が組み立てた構図に基づき、デザイン性が高い。その一方で、保津川の土地の起伏や木々、勢いよく流れる川の動きや、女たちを襲った夕立の風や雨の感覚が、リアルに表現されている。

18世紀の後半に生まれ、19世紀前半に活躍した画家たち — 葛飾北斎(1760-1849)、酒井抱一(1761-1828)、歌川広重(1797-1858)等 — は、「装飾性」と「写実性」という二重の要請を満たしながら、各自の気質に応じた表現を模索していった。

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江戸時代前半の絵画 上方文化と江戸文化

江戸時代の絵画を考えるとき、狩野派など幕府や大名お抱えの流派、尾形光琳を代表とする琳派、浮世絵などを別々に論じることが多い。また、京都、大阪を中心とした上方文化と江戸の文化を切り離して考える傾向もある。
士農工商という身分制度が確立したために、各身分間の交渉が断絶し、文化的にも交流がほとんどなかったと言われることもある。

しかし、江戸幕府が成立して以来、経済活動が活発化すると、高級商人階級が台頭し、大名や旗本とともに、経済力を持った町人たちが文化を支えるようになっていた。
地理的に言えば、天皇家の所在は京都であり続け、文化的には上方が支配的な状態にあったが、それでも徐々に将軍家の居住地である江戸も大きな位置を占めるようになる。江戸の町人を中心に発展した浮世絵は、まさにそうした現象の象徴といえる。

この時代の社会階級と地理的な移動を体現している芸術家がいる。俳諧を芸術にまで高めた松尾芭蕉(1644-1694)である。
彼は伊賀の下級藩士の家に生まれ、若い頃は俳諧好きの侍大将に仕えていた。その後29歳で江戸に居を移し、俳諧の宗匠として身を立てるようになる。裕福な町人たちを弟子に取り、経済的にやっていけるようになったのだった。その後、深川に引きこもり、さらには主に関西との間を往復する旅を重ねた。
こうした芭蕉の動きは、武士と町人の間、上方と江戸の間を繋ぐものだといえる。

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ドガとロートレック Edgar Degas et Henri Toulouse-Lautrec 室内の画家

女性の背中を描いた二枚の絵がある。

どちらがエドガー・ドガで、どちらがアンリ・トゥールーズ=ロートレックだとわかるだろうか?

ちょうど30歳の年齢の違いはあるが、二人の画家は、19世紀後半にあって、印象派と象徴主義という二つの大きな絵画の流れの中で、独自の世界を構築した。

彼らは、室内の人工的な光の下で、女性たちの肉体の動きを描き出すことによって、人間の生の感情を表出することに成功した。
ここでは、二人の画家の世界に一歩だけ足を踏み入れてみよう。

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浮世絵への道 étapes vers le Ukiyo-é 

江戸時代を代表する浮世絵が17世紀の後半に描かれるようになるまでには、室町時代後半からの絵画の伝統があった。
その流れを辿ってみると、平安時代に確立した大和絵と、鎌倉時代以降に大陸から移入された漢画が融合され、新しい時代の美意識を生み出していく様子を見ることができる。

地獄草紙 東博本 雨炎火石

「うき世」とは、元来は、「憂世」と記され、日々の生活の過酷さを表す言葉だった。
来世に極楽「浄土」に行くことが理想であり、この世は「穢土(えど)」であり、厭わしく、憂うべき場所。

そうした現実感は、地獄絵等によって表現されている。
地獄の絵とされているが、実際には、現実の過酷さの実感を伝えるものだったと考えられる。

その「憂世」が「浮世」に変わる。
現実の厳しさは変わらない。しかし、束の間の一生だからこそ、昨日の苦しさを忘れ、明日の労苦を思い煩わず、今日この時を、浮き浮きと楽しく生きようと考える。
最先端をいくファッションを楽しみ、最新の話題や風俗を享受する。
そうした時には、官能性を隠すことなく、悪所と言われた遊里と芝居町を住み処とする美女や役者たちをモデルにして、美人画や役者絵が描かれる。

浮世絵は、現実を「浮世」と思い定めた時代精神を表現する絵画なのだ。

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パリ時代のゴッホ Gogh à Paris 印象派と浮世絵

ゴッホは、1886年2月末にパリに突然姿を現し、1888年2月になると、南フランスのアルルへと去っていく。この約2年間のパリ滞在中、彼は何を習得したのだろうか。

アルルに到着後、彼はパリにいる弟のテオへの手紙で、こんな風にパリ滞在を振り返る。

パリで学んだことを忘れつつある。印象派を知る前に、田舎で考えていた色々な考えが、また返ってきた。だから、ぼくの描き方を見て、印象派の画家たちが非難するかもしれないけれど、ぼくは驚かない。

ゴッホの意識では、アルルでの仕事はオランダ時代に続くものであり、パリでの2年間は空白の時だったらしい。

しかし、ゴッホの絵は明らかに大きな変化を見せている。彼の絵画は、印象派の影響を受け、オランダ時代の暗いものから、色彩のオーケストレーションといえるほど、明るさを増している。

ここでは、パリ滞在の2年に限定し、ゴッホの絵画を辿ってみよう。

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ジヴェルニー モネの家と庭 Giverny la maison et le jardin de Monet

パリからセーヌ河を80キロほど下ったところにジヴェルニー村がある。そこには、印象派の代表的な画家クロード・モネが暮らした家が今でも残され、観光スポットになっている。
冬の間、モネの家と庭は閉じていいて、2019年は3月22日から公開が再開された。

一番の見ものは、睡蓮の池と太鼓橋。


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印象派と浮世絵

19世紀後半、ヨーロッパでは、ルネサンス以来続いてきた芸術観が大転換を迎えた。
現実にあるもの(la nature)を模倣(imiter)、あるいは再現する(représenter)ことを止め、新たな美を生み出そうという動きが始まる。
まさにその時期、浮世絵が知られるようになり、とりわけフランスの絵画に大きな影響を及ぼした。

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