
第19詩節で言及された、生を生き、「私」から離れない、真の齧歯類(le vrai rongeur)とは何か?
墓石の下では死者たちを蝕み、個体を崩し、大地にしてしまう。
では、地上では、何をかじるのか?
その対象は、「正確さに対する限りない欲望」を抱いた意識ではないだろうか。
その欲望が「私」を苛み、意識は、自己へ向かう愛、あるいは憎しみになる。
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墓石の下では死者たちを蝕み、個体を崩し、大地にしてしまう。
では、地上では、何をかじるのか?
その対象は、「正確さに対する限りない欲望」を抱いた意識ではないだろうか。
その欲望が「私」を苛み、意識は、自己へ向かう愛、あるいは憎しみになる。
続きを読む第10詩節から第19詩節にかけて、墓地に眠る死者たちに関する瞑想を中心に、現実と不在、個と普遍、肉体と精神に関する問いかけが行われる。
10詩節60行に及ぶ詩句は安易に理解できるものではなく、理解するためには精神の集中が必要になる。
まず最初に、詩句の音楽性を感じるため、もう一度youtubeで朗読を聞いておこう。(第10詩節は、4分35秒から。)
第5詩節から第9詩節において、「私(Je)」が「魂(âme)」に語り掛けるという行為を通して、変化=動きが生まれる瞬間が捉えられている。
その変化とは、「私」の中で魂と肉体が分裂すること。
それはまだ完全には起こっていず、今起こりつつあるか、未来(futur)に起こりうる出来事として提示される。
その意味で、5つの詩節で描かれる事象は、思考の冒険に他ならない。
ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地(Le Cimetière marin)」は、詩人が、生まれ故郷である南フランスのセットにある墓地に腰を下ろし、地中海の美しい海を眺め、瞑想にふけるところから始まる。そして、様々な思索を繰り広げた後、堀辰雄の訳で有名な「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句をきっかけにし、現実へと意識を移すところで、終わりを迎える。
10音節の詩句が6行で一つの詩節を構成し、それが24続く長い詩を、4回に分けて読んでいこう。
続きを読む「紅の豚」の主人公は、豚の顔をした中年のパイロット。格好良くもないし、英雄でもない。何か特別なことを成し遂げるわけでもない。
そんな作品に関して、宮崎駿監督は、「紅の豚」の演出覚書の中で、「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画であることを忘れてはならない。」と書いている。
また、「モラトリアム的要素の強い作品」という言葉を使い、大きな流れから一旦身を引き、執行猶予あるいは一時停止の状態にいる人間の状況がテーマであることを暗示する。
そのような状況設定に基づき、「紅の豚」は私たちに、宮崎監督の考える「大人」、そして「人間が個人として生きることの意義」を明かしてくれる。
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