小林秀雄的思考と皮肉 — 考える葦のアイロニー

卒業論文でアルチュール・ランボーを取り上げて以来、小林秀雄の根底には常にランボーがいたのではないかと、私は個人的に考えている。

その基本となるのは、一般に認められていることから距離を置き、皮肉(アイロニー)を投げつける姿勢。
その言葉の、ランボーで言えば中高生的な乱暴さが、小林なら江戸っ子的な歯切れのよさが、魅力的な詩句あるいは文を形作っている。

そして、その勢いに飲まれるようにして、読者は、分かっても分からなくても、詩句や文の心地よさに引き込まれ、彼らのアイロニーを楽しむことになる。

小林秀雄にはパスカルに関する興味深い文があり、その冒頭に置かれた「人間は考える葦である」に関する思考は、「小林的なもの」をはっきりと示している。

まずは、小林の考えに耳を傾けてみよう。

人間は考える葦だ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落(しゃれ)だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一とたまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。(「パスカルの「パンセ」について」昭和16年7月)

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 1/5

Nadar, Gérard de Nerval

ジェラール・ド・ネルヴァルは、しばしば、狂気と幻想の作家と言われてきた。
しかし、彼の声に耳を傾けて実際に作品を読んでみると、その場その場で話題になっていることを、面白可笑しく、時に皮肉を込めて、友だちと話すのが大好きな人間の姿が見えてくる。
ちょっと内気で、あまり大きな声ではない。やっと4,5人の友だちに聞こえるくらい。でも、調子づくと、脱線しながら、面白い話が次々に出てくる。

1852年に『イリュストラシオン』という絵入り雑誌に5回に渡って掲載された「10月の夜」は、そうしたネルヴァルの語り口をはっきりと感じさせてくれる。

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