アリスの不思議な世界 2/2

行動に関する予想外

アリスの不思議な国では、言葉だけではなく、全てのことが予想をくつがえしながら進んでいく。物事は決して型通りには運ばない。「こうすればこうなる」という自動化された連結が次々に破壊される。
なぜそんなことになるのだろうか?

アリスがドアを開けて、部屋に入る場面を考えてみよう。
一般的には、アリスという主体がいて、彼女が部屋に入りたいと考え、ドアを開け、部屋に入っていくとみなされる。次に、部屋の中でテーブルの上にある飲み物を飲むとすると、同じ主体が飲みたいと考え、コップに手を伸ばし、それをつかみ、口に運び、ジュースを飲むという行為の連続が想定される。
動作主であるアリスがまず存在し、彼女が行動を決定し、実行する。

こうした普通の考え方に対して、アリスの不思議な国では、動作の方が主体よりも先にくる。まず行動があり、その後から、それをした人が想定される。ドアを開けるという行為があり、それから、それをした人が誰かという問題が出てくる。

こうした行動中心の視点を最もよく表現しているのは、チェシャ猫である。
公爵夫人の台所の中で、チェシャ猫は耳から耳まで届きそうな大きな口をあけて、ニヤニヤしている。
アリスが森の中に行くと木の枝の上に突然現れ、また消える。そこでアリスはこう呼びかける。

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ジャン・ジャック・ルソー 『告白』 Jean-Jacques Rousseau Confessions 誰とも違う自己を語る

18世紀後半を代表する文学者ジャン・ジャック・ルソーは、『告白(Confessions)』の中で、これまで誰もしたことがない新しい試みをすると宣言する。
その試みとは、自己を語ること。

もちろん、それまでに回想録は数多くあったし、私的な自己を語るというのであれば、モンテーニュの『エセー』も同じだった。
では、ルソーは何をもって、新しい試みと言うのだろうか。

ルソーは、彼の自己(moi)は、誰とも違っていると言う。
現代では、「私」は他の人とは違う唯一の存在と考えるのが普通だが、彼以前には他者と同じであることが「私」の価値であり、違う私に価値を見出すことはなかった。

そして、ルソーの言う「人とは違う私」の中心は「私の内面」。
彼は、個人の価値を、社会的な役割ではなく、心が感じる感情に置いた。

現代の私たちの価値観ではごく当たり前になっていることの始まりが、ルソーの『告白』にあるといっても過言ではない。

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モンテーニュ 「読者へ」 Michel de Montaigne Au lecteur 自己を語る試み

1580年、モンテーニュは、『エセー(Essais)』の最初に「読者へ(Au lecteur)」と題した前書きを付け、自分について語ることが16世紀にどのような意味を持っていたのか、私たちに垣間見させてくれる。

現在であれば、自己を語ることはごく当たり前であり、日本には私小説というジャンルさえある。
それに対して、モンテーニュは、自己を語ることの無意味さを強調する。
そして、彼が書いたことは彼自身のことなので、他人が読んでも時間の無駄だと、読者に向かって語り掛ける。

出だしから、読むなと言われれば、読者は当然読みたくなる。
次の時代のパスカルも、18世紀のルソーもモンテーニュの熱心な読者だし、現代のフランスでも読者の数は多い。

16世紀のフランス語は現在のフランス語とはかなり異なっているので、多少綴り字などを現代的にしたテクストで、「読者へ」を読んで見よう。

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マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 1/7

Gustave Moreau, Apparition

1860年代、ステファン・マラルメはボードレールの影響の下で詩作を続けながら、エロディアード(Hérodiade)をめぐる詩「エロディアード 舞台」と、未完に終わった「序曲」の執筆を通して、自らの詩の本質について問い詰め、「無(le Néant)に出会い、美(le Beau)を見出した。」という一つの結論に至る。

この考え自体、理解するのが難しい。
そして、実際に出版にまで至った「エロディアード 舞台」の詩句を理解するのも、同じように難しい。

その一方で、詩句は音楽的で、非常に美しい。
次の時代にギュスターブ・モローによって描かれた、サロメが予言者ヨハネの首を指さす、あの「出現(Apparition)」のように美しい。(1876年作)

マラルメは、この詩を1864年10月に書き始め、『現代高踏派詩集』の第二版に掲載するために出版社に送られる1869年まで、続けられたのかもしれない。

その長い推敲と執筆の期間の間に、精神の危機と呼ばれる時期を迎え、苦労に苦労を重ねて、134行に及ぶ詩句を書き上げた。

執筆を開始した時期と終わった時期では、マラルメの思考にも変化もある。
だが、エロディアードと格闘することで、「マラルメはマラルメになった」とさえ言える作品であることは間違いない。

マラルメの詩は感性を動かし、読者を感動させるものではない。しかし、ただ知的で理論的な構築物でもない。
マラルメは、言語と自己の探求を通して、詩としての「美」を生み出そうとした。
「エロディアード 舞台」は、その詩的出来事の、一つの成果にほかならない。

第1回目では、詩を理解するための前提となる、マラルメの言語と自己に関する思索と詩作について考えていく。

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