フランソワ・ラブレー ルネサンス的理想の人間像を求めて 3/3 教育と自由

『第二の書 パンタグリュエル物語』(1532)には、ガルガンチュア王がパリにいる息子パンタグリュエルに送った手紙(第8章)が挿入され、フランス・ルネサンス期の教育論を代表するものと考えられている。
知識が人格形成につながる人文主義的な思想に基づく教育によって、父は息子に理想の人間像を伝える。

面白いことに、その後すぐ、パンタグリュエルは、アンチ理想像ともいえるパニュルジュに出会い、一生の友とする。
パニュルジュという名前はギリシア語で「どんなことでもする、意地悪」を意味し、トリックスターのような存在を暗示している。

『第一の書 ガルガンチュア物語』(1534)になると、パニュルジュの役割はある意味では修道士ジャンに引き継がれ、物語の最後、ユートピアである「テレームの僧院」が彼に与えられる。

唯一の規則が「欲することを行え。」という僧院は、人文主義を代表するエラスムスや『ユートピア』の著者トマス・モーアの理想ともつながる。
そうした空間がジャンという破天荒な修道士に与えられることは、ラブレーにおいて、滑稽さや遊びの精神も理想郷に含まれることを示している。
そこでは、「自由」が全ての根本に置かれる。

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自由と真実 liberté et vérité

西欧社会では、人間の「自由」に大きな価値を置いている。基本的な人権は自由を認めることであり、自由を認めないことは主権の抑圧と捉えられる。
社会主義的な国では、個人の自由よりも国家の権限が上に置かれ、社会の安定を維持するためであれば、個人の自由を制限することは、かなりの部分で許容される。
日本はその中間にあり、自由は主張するが、ある程度の制限は仕方がないという傾向が見られる。

自由の問題は、誰もが匿名で非人称のコミュニケーション空間にオピニオンを発信できるSNSの時代になり、真実を認定する困難さをますます増大させている。
何を発言し、何を信じるとしても、個人の自由。そうなれば、真実とは一人一人が真実だと思うものであり、他者と共有される必然性はなくなる。
より現実的なレベルで言えば、限定された数の人間がオピニオンを共有すれば、それが他のオピニオンからどんなにFake Newsと言われようと、彼らにとっての真実であり続ける。
その状況は相互的であり、100人のうち70人がAを、30人がBを真実とした場合、どちらが真実と言えるのか?
映像でさえ容易に加工できる時代、言葉だけではなく、映像もそのまま信じることはできない。

現代社会において大きなテーマであり続ける自由と真実について、歴史的な展望を含め、少しだけ考えてみよう。

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ラ・フォンテーヌ 「狼と犬」 La Fontaine « Le Loup et le Chien » 自由からありのまま(naturel)へ

イソップ寓話の「狼と犬」は日本でも比較的よく知られている。
犬は、束縛されてはいるが、安逸な生活を送る。
狼は、自由だが、いつも飢えている。
そして、イソップ寓話では、狼が体現する自由に価値が置かれる。

17世紀のフランスのサロンや宮廷は、「外見の文化」の時代。
貴族たちは、社会の規範に自分を合わせないといけないという、強い束縛の中で生きていた。服装や振る舞いが決められ、逸脱したら社会から脱落することになる。
そうした束縛が支配する場で、「狼と犬」の寓話を語るとしたら、どんな話になるだろうか。

言葉遣いの名手ラ・フォンテーヌの「狼と犬」では、教訓は付けられていず、「狼は今でも走っている。」という結末。
そこで、読者は、自分で教訓を考える(penser)ように促されることになる。

束縛ではなく自由を選ぶと言うことはたやすい。
しかし、実際に自由に生きることは簡単ではない。そのことは、ルイ14世の宮廷社会に生きる貴族たちも、21世紀の日本を生きる私たちも、よくわかっている。

ラ・フォンテーヌの寓話は、最初から決まった結論に読者を導くよりも、「考える(penser)」ことを促す。その意味では、デカルトやパスカルと同じ17世紀フランスの「考える」文化に属している。

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かぐや姫の物語 自由と自然 Le conte de la Princesse Kaguya liberté et nature

高畑勲監督が2014年に発表した「かぐや姫の物語」は、スタジオジブリの作品としては、まったくヒットしなかった。
同じ年に公開された宮崎駿監督の「風立ちぬ」が810万人(興行収益120億円)だったのに対して、「かぐや姫の物語」は185万人(25億円)だったと言われている。

フランスで公開された時には、芸術性が優れているという点で評価が高く、日本でも一部からは優れたアニメとして認められている。しかし、人気は出なかった。その理由はどこにあるのだろうか。

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1980年代の青春 自由と苦しみ 尾崎豊

1980年から1990年代に青春時代を過ごした人は、2010年代には40歳を超え、50歳台になり、大学生の子どもを持つ親になっていることも多い。
そして、大学生というフィルターを通して二つの世代を見るとき、何か大きな違いを感じる。
今、尾崎豊の歌を聴くと、その違いがはっきりとわかる。

「15の夜」には、校舎の裏、煙草を吹かし、盗んだバイクで走り出し、友だちと家出の計画を立てる等という歌詞がある。

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ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 6/7 自省の時

第18詩節から第21詩節までの4つの詩節では、「ぼく=酔いどれ船」がどのような存在であるのかが、”moi”という言葉を先頭にして示される。

第18詩節

Or moi, bateau perdu sous les cheveux des anses,
Jeté par l’ouragan dans l’éther sans oiseau,
Moi dont les Monitors et les voiliers des Hanses
N’auraient pas repêché la carcasse ivre d’eau ;

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ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 1/7 自由への旅立ち

ランボーの「酔いどれ船」は傑作と言われ、パリのサン・シュルピス教会のすぐ横にある壁には、100行の詩句全部が書かれている。

しかし、意気込んで読んでみても、難しくて理解できないところが多い。
この詩のどこに、多くの読者を惹きつける魅力があるのだろう。

今から、4行詩が25節続く詩の大海原に、船を漕ぎだしてみよう。

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