ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 5/5

「永遠が見つかった!」と韻文詩の中で叫んだ後の散文詩は、日常的な言語感覚では意味不明なものにますます傾いていく。
構文は単純であり、初級文法さえ知っていれば理解可能な文が続く。
理解を妨げるのは、単語と単語の繋がり。

例えば、冒頭の「ぼくは空想的なオペラになった。」という一文。
人間がオペラになる? 
空想的な(fabuleux)オペラとは何か? 
ランボーはその答えを導くヒントをどこにも残していない。
読者は、自分の持つ知識と感性に従って、何らかの思いを抱き、次の文に進むしかない。
しかし、前の文と次の文の意味的な連関もよくわからない。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 4/5

韻文詩「空腹(Faim)」と「狼が叫んでいた(Le loup criait)」は、空腹を歌う詩。
二つの詩とも、内容はただ「腹へった!」というだけ。
そんな空虚な内容を、軽快で、音楽性に満ち、スピード感に溢れた詩句で綴っていく。

ランボーは、意味よりも表現にアクセントを置き、これまでの詩法に違反したとしても、スタイリッシュな詩句を口から紡ぎ出す。

その詩句の魅力に引き寄せられた読者は、何らかの意味があると信じ、読者自身で意味を考え出す。
それがランボーの詩句の意味となり、意味が重層化され、ランボーの詩の中に堆積してきた。

ランボーは、『地獄の季節』の散文でも、同じ作業を行う。
二つの詩に続く散文は、とりわけ魅力的に響く。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 3/5

「最も高い塔の歌(Chanson de la plus haute tour)」で世界に別れを告げたというランボー。

その韻文詩は、非常にスタイリッシュなリフレインで始まる。

Qu’il vienne, qu’il vienne
Le temps dont on s’eprenne !

時よ来い、時よ来い
陶酔の時よ、来い!

その後に続く詩句は、何か現実を反映しているというよりも、苦しみ、恐れ、渇き、忘却といった言葉が疾走し、花開く草原に汚いハエたちの荒々しい羽音がする。
https://bohemegalante.com/2019/11/22/rimbaud-chanson-de-la-plus-haute-tour/
連続する詩句は、具体的なものを描写する言葉ではない。
言葉たちが幻覚(hallucination)を生み出しているようでさえある。

この歌で世界に別れを告げた後、詩人は再び「ぼく」の経験を語り始める。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 2/5

冒頭の散文の後、ランボーは韻文詩「鳥、家畜、村の女たちから遠く離れて(Loin des oiseaux, des troupeaux, des villageoises)」と「午前4時、夏(À quatre heures du matin, l’été)」を挿入し、その後再び散文に戻る。

挿入された最初の詩の主語は「ぼく」。
ぼくがオワーズ川で水を飲むイメージが描き出される。そして最後、「泣きながら黄金を見たが、水をもはや飲むことは。(Pleurant, je voyais de l’or — et ne pus boire. —)」という詩句で締めくくられる。

二番目の詩では、「ぼく」という言葉は見当たらない。しかし、朝の四時に目を覚し、大工達が働く姿が見えてくる状況が描かれるとしたら、見ているのは「ぼく」だろう。
その大工たちが古代バビロニア王の下で働く労働者たちと重ね合わされ、彼等にブランデー(生命の水)を与えるヴィーナスに言及される。

二つの詩は、渇きと水をテーマにしている点では共通している。その一方で、オワーズ川というランボーの故郷を流れる現実の川と古代バビロニアや女神が登場する神話的なイメージは、対照を成している。

その二つの韻文詩の後、散文が続く。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 1/5

アルチュール・ランボーは、『地獄の季節(Une Saison en enfer)』の中心に、「錯乱2:言葉の錬金術(Délires II. Alchimie du verbe)」と題する章を置き、7つの韻文詩とそれらを取り囲む散文詩を配した。

そこで繰り広げられた「言葉の錬金術」の内容は、1871年5月に書かれた「見者の手紙(Lettres du Voyant)」や、同じ年の8月に投函されたテオドール・バンヴィル宛ての手紙に書き付けられた韻文詩「花について人が詩人に語ること(Ce qu’on dit au poète à propos des fleurs)」の中で展開された詩法を、さらに発展させたものと考えられる。

ここでランボーの散文詩を読むにあたり、指摘しておきたいことがある。
多くの場合ランボーの散文の構造は非常に単純であり、それだからこそ、青春の息吹ともいえる生き生きとしたスピード感に溢れている。
その一方で、単語と単語の意味の連関が希薄なことが多く、論理を辿りにくいだけではなく、意味不明なことも多い。
そのために、多様な解釈が可能になる。読者の頭の中にクエション・マークが??????と連続して点滅する。
その不可思議さが、ランボーの詩の魅力の一つでもある。

では、これから『地獄の季節』の心臓部とも言える「錯乱2:言葉の錬金術」を読んでみよう。

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ボードレール 月の悲しみ Baudelaire « Tristesses de la lune » 新しいロマン主義?

1857年、『悪の華(Les Fleurs du mal)』を贈られたフロベールはボードレールに礼状を書き、「あなたはロマン主義を若返らせる(rajeunier le romantisme)方法を見つけたのです。」と詩集全体の総括をした。
さらに続けて、好きな詩の題名を幾つか列挙し、その中で、「月の悲しみ(Tristesses de la lune)」を挙げる。そして、そのソネの第1カトラン(四行詩)の3行目と4行目を引用した。

フロベールは、『ボヴァリー夫人』の中で、エンマのロマン主義的な傾向を揶揄しているように見え、ロマン主義の批判者とも受け取れる。しかし、別の視点から見れば、彼もまた「ロマン主義を若返らせる」方法を模索したと考えることもできる。

では、詩人と小説家が同じ方向に歩みを進めていたとしたら、新しいロマン主義とはどのようなものなのだろうか。

同じ礼状の中で、フロベールはボードレールに、螺鈿(damasquinage)にも似た「言語の繊細さ(délicatesses de langage)」が、『悪の華』の「辛辣さ(apreté)」に価値を与えていて、その辛辣さが好きだと伝える。

エンマのロマン主義で批判の対象になるのは、センチメンタリスム。
それに対比されるのは、夢が消えた後の虚しさ、苦々しい想い、不快さ。一言で言えば、「辛辣さ(apreté)」。
とすれば、若返ったロマン主義は、「螺鈿の言葉を彫琢し、辛辣さから美を生み出す」ものと言えるのではないだろうか。

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ボードレール 「腐った屍」 Baudelaire « Une Charogne » 奇妙な恋愛詩

ボードレールの「腐った屍(Une Charogne)」は、とても奇妙な恋愛詩。

恋人と二人で道を歩いているとき、一匹の動物の腐った死骸を見る。蛆がたかり、肉体は崩れかけている。
そのおぞましい光景を描きながら、愛の歌にする。

どうしてそんなことが可能なのだろう?

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マラルメ 「それ自身の寓意的ソネ」 Mallarmé « Sonnet allégorique de lui-même » マラルメの詩法(2/2)

1887年に出版された「純粋なその爪が」(«Ses purs ongles»)には、それ以前に書かれた原形の存在が知られている。
1868年7月、友人のアンリ・カザリスに宛てて送られた、「それ自身の寓意的ソネ」(« Sonnet allégorique de lui-même »)である。

実際、二つの詩の間では共通の単語が用いられ、構文が類似している詩句もある。しかし、その一方で、違いも大きい。
マラルメの初期の時代の詩法を知り、後期の詩法との違いを知ることは、19世紀後半のフランス詩全体の動きを知る上でも興味深い。

幸い、1867年の詩に関しては、マラルメのいくつかの証言が残されている。それに基づきながら、彼が何を考え、どのように表現したのか、探っていこう。

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マラルメ YXのソネ 「純粋なその爪が・・・」  Mallarmé, Sonnet en YX  « Ses purs ongles … » マラルメの詩法(1/2)

マラルメの詩は難しくて、何を意味しているのかわからないことが多くある。
その一方で、声に出して読むと、大変に美しい。

この特色は、一つの視点から見ると、日本の書道に似ている。
しばしば書いてある文字が何を意味しているのか分からない。
しかし、文字の映像としては、とても美しい。

西本願寺本三十六人家集、源重之集

例えば、平安時代に流行した和歌集冊子「西本願寺本三十六人家集、源重之集」の一部を見てみよう。
四季の草花や風景を繊細に描いた文様を施された料紙に、仮名文字で和歌が綴れている。

えだわかぬ はるにあへども むもれ木は
もえもまさらで としへぬるかな

現代の私たちはこの仮名文字をほぼ読むことができないが、とても美しいと感じる。意味でははく、文字の造形性が、美を生み出している。

マラルメの詩句では、文字の映像ではなく、音楽性が美を生み出す主要な要素として機能する。

こうした美のあり方を前提にして、マラルメが自己の詩法を表現したと見做される、YX(イクス)のソネ「純粋なその爪が」の読解にトライしてみよう。

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ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その2 詩の大海原

「詩は絵画のように」から詩の大海原へ

Willam Turner, Calais Pier

第1−2詩節では、酔いどれ船(私)が、「大河」を自由に下ることになったいきさつが明らかにされた。

第3−5詩節になると、船は河から海に出、海岸近くから沖へと流されていく。

ランボーはその様子をナレーションで語るのではなく、イメージを連ね描いていく。

その手法は、ut pictura poesis(詩は絵画のように、絵画は詩のように)と言われる、詩に関するローマ時代からの考え方を思わせる。

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