ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 2/5

冒頭の散文の後、ランボーは韻文詩「鳥、家畜、村の女たちから遠く離れて(Loin des oiseaux, des troupeaux, des villageoises)」と「午前4時、夏(À quatre heures du matin, l’été)」を挿入し、その後再び散文に戻る。

挿入された最初の詩の主語は「ぼく」。
ぼくがオワーズ川で水を飲むイメージが描き出される。そして最後、「泣きながら黄金を見たが、水をもはや飲むことは。(Pleurant, je voyais de l’or — et ne pus boire. —)」という詩句で締めくくられる。

二番目の詩では、「ぼく」という言葉は見当たらない。しかし、朝の四時に目を覚し、大工達が働く姿が見えてくる状況が描かれるとしたら、見ているのは「ぼく」だろう。
その大工たちが古代バビロニア王の下で働く労働者たちと重ね合わされ、彼等にブランデー(生命の水)を与えるヴィーナスに言及される。

二つの詩は、渇きと水をテーマにしている点では共通している。その一方で、オワーズ川というランボーの故郷を流れる現実の川と古代バビロニアや女神が登場する神話的なイメージは、対照を成している。

その二つの韻文詩の後、散文が続く。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 1/5

アルチュール・ランボーは、『地獄の季節(Une Saison en enfer)』の中心に、「錯乱2:言葉の錬金術(Délires II. Alchimie du verbe)」と題する章を置き、7つの韻文詩とそれらを取り囲む散文詩を配した。

そこで繰り広げられた「言葉の錬金術」の内容は、1871年5月に書かれた「見者の手紙(Lettres du Voyant)」や、同じ年の8月に投函されたテオドール・バンヴィル宛ての手紙に書き付けられた韻文詩「花について人が詩人に語ること(Ce qu’on dit au poète à propos des fleurs)」の中で展開された詩法を、さらに発展させたものと考えられる。

ここでランボーの散文詩を読むにあたり、指摘しておきたいことがある。
多くの場合ランボーの散文の構造は非常に単純であり、それだからこそ、青春の息吹ともいえる生き生きとしたスピード感に溢れている。
その一方で、単語と単語の意味の連関が希薄なことが多く、論理を辿りにくいだけではなく、意味不明なことも多い。
そのために、多様な解釈が可能になる。読者の頭の中にクエション・マークが??????と連続して点滅する。
その不可思議さが、ランボーの詩の魅力の一つでもある。

では、これから『地獄の季節』の心臓部とも言える「錯乱2:言葉の錬金術」を読んでみよう。

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ボードレール 苦痛の錬金術 Baudelaire Alchimie de la douleur 魔術的クリエーションの原理

錬金術(alchimie)とは、卑俗な金属を黄金に変える秘法。
Al-chimieのalはアラビア語の冠詞。

近代に入り、錬金術の実験科学的側面が理性の制限を受け入れることで、化学(chimie)が発展した。

原則的に、「無」から「有」を作り出すことはできない。
錬金術にしろ化学にしろ、なんらかの材料に働きかけ、変形することで製品を作り上げる。
クリエーションとは「有」を「別の形の有」に変形・変質させること、という意味では、錬金術と化学に違いはない。

では、違いは何か?

近代の化学は、合理的な思考に基づき、検証可能な過程を経て、変形を行う。
従って、いつ、誰が、どこで操作をしても、同じ結果になる。
化学は自然科学に属する。

それに対して、錬金術は魔術的であり、理性とは無関係に作動する。
そのため、実験の検証は不可能。黄金精錬の可否は錬金術師の技による。
錬金術は一回限りの秘儀。

ボードレールは、一行8音節のソネ「苦痛の錬金術」という極小の詩的空間の中で、彼の錬金術(非化学的クリエーション)がどのようなものか、精錬室を垣間見させてくれる。

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