温故知新

井筒俊彦のエッセイ集を読んでいて、「温故知新」という最近ではすっかり忘れられた言葉に出会った。

「温故知新」。
使い古された表現だが、「温故」と「知新」とを直結させることで、この『論語』の言葉は「古典」なるものに関わる真理を言い当てている。
「古典」とは、まさしく”古さ’を窮めて、しかも絶え間なく”新しくなる”テクスト群なのだ。
“新しくする”もの、それは常に、「読み」の操作である。
    (井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)

井筒が強調するのは、古いものは、「読むこと」によって、新しいものに「なる」ということ。
「読む」行為が、古いものを新しいものに「する」。

幾世紀もの文化的生の集積をこめた意味構造のコスモスが、様々に、大胆に、「読み」解かれ、組み替えられていく。現代の知的要請に応える新しい文化価値創出の可能性を、「温故」と「知新」との結合のうちに、人々は探ろうとしている。
    (井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)

「意味構造のコスモス」といった井筒俊彦独特の表現が使われているために、難しいと感じられるかもしれない。
しかし、ここに記されていることは、「温故知新」という言葉が、「古いものをたずね求めて新しい事柄を知る」という、わかったようなわからないような解説ではなく、「古典」として評価が定着してきた価値ある伝統を、現代に生きる私たちが読み直すことで、新しい価値を産み出すという、能動的な行為を意味しているということである。

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「国際」とは? 発見と無主地・占有 台湾出兵

「国際法(International law)」では、領土の取得について、「無主地」(terra nullius)に対する「先占」という考え方が認められている。
それは、非常に単純化して言えば、主権が確立していないと考えられる土地に関しては、「発見」した主体が所有権を獲得できる、という原理に基づいている。

その原則は、15世紀から始まったいわゆる大航海時代以来、新大陸や新航路「発見」に続き、「文明国」が世界各地を支配下に置いていく過程で成立したものであり、様々な利害関係が交錯する中でも、常に「国際法」の土台となってきた。
(歴史的な展開については、島田征夫「国際法上の無主地先占の法理 : 続・19世紀慣習国際法の研究」に詳しく記載されている。)

日本においても、江戸時代後期から明治維新直後にかけて、へンリー・ホイートンの原書を北京で活動していたアメリカ人宣教師ウィリアムス・マーチンが漢訳した『万国公法(Elements of International Law )』や、セオドア・D・ウールジー著・箕作麟祥訳『国際法 一名万国公法(Introduction to the Study of International Law)』などを通し、「国際法」の理解が進んでいった。

「無主地」とは、ある土地に人間が住んでいたとしても、主権が確立していないと見なされる未開の土地を指す。
「占有」とは、領有する意図を持ち、他の国よりも先に「無主地」を実行支配すること。

1874年(明治7年)、明治政府が行った台湾出兵は、「無主地・占有」の概念を巧みに利用したものであり、日本が支配される側から支配する側へと移行する最初の一歩だったと考えることができる。

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1492年 コロンブス以降の「世界史」

自分たちがどのような時代を生きているなのかを知るのは難しい。今起こっていることが当たり前すぎて、その状況を相対化する視点から物事を見ることが難しいからだ。
そして、過去を探る場合にも、現在の視点から考察することが多く、過去が現在の世界観、価値観によって書き直されることが多い。

ジャック・アタリの『1492 西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)は、1492年のコロンブスによる「新大陸の発見」という出来事の意味を問い直し、その後の世界全体が一つの世界観の下にあり続ける、その起源を描き出す。
あまりにも詳細な記述が行われるために、読みやすいとはいえないのだが、とりわけ非西欧の読者が今の世界を知るために、これほど説得力のある歴史書はないのではないかと思われる。

その要旨を一言で言えば、「新大陸の発見」という表現自体が、すでに欧米中心の世界支配を表しているということ。
その大陸は「発見」される以前にすでに人々が住み、生活していたのだ。コロンブスのサン・サルバドル島到達は、西欧世界が描いた世界史の中での、象徴的な出来事に他ならない。

その事件の後、スペイン、ポルトガル、さらにはオランダ、フランス、イギリスといった国々が、アメリカ大陸だけではなく、アフリカやアジアに「進出」していくことになるのだが、支配の仕方はそれぞれの大陸によって異なっていた。
ジャック・アタリは、その違いを次のように説明する。

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デカルト 神の存在 『方法序説』第4章 Descartes Discours de la méthode chapitre 4 Dieu existe

ルネ・デカルト(René Descartes, 1596-1650)は、人間の本質に理性を置き、合理主義の思考の基礎を築いた哲学者と考えられることが多い。

1637年に出版された『方法序説(Discours de la méthode)』の有名な言葉「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis.)」は、全ての人間には良識(bon sens)=理性(raison)が備わり、それに導かれることで真理(vérité)に到達できることを原則として思想の表現として、21世紀の現在でもよく知られている。

ところが、『方法序説』の第4章において、デカルトが、真理を保証するものとして「神(Dieu)」の存在を持ち出していることは、比較的忘れられている。
そこで、ここでは、デカルトが神についてどのような考察をし、神の存在を証明し、神が存在することがどのような意味を持つと考えたのか、探ってみることにしよう。

ただし、17世紀前半のフランス語は現在のフランス語とそれほどの違いがないとはいえるが、しかし、表現の仕方などで違いもある。例えば、動詞と代名詞の位置、構文の複雑さ、接続法の多用など。
そこで、フランス語自体の説明もやや詳しくするために、記述がかなり煩雑になってしまうことを予め断っていきたい。

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アルチュール・ランボーの新しい写真(?)   

「1873年11月1日にパリで撮影されたアルチュール・ランボーの写真」というタイトルを付けて、ソーシャル・メディアにアップされた写真。

Rarissime photo d’Arthur Rimbaud prise par Ernest Balthazar, un photographe de rue, à Paris le 1er novembre 1873

顔は1871年にエチエンヌ・カルジャによって撮影された有名な写真そっくり! 
しかし、実際には、リュック・ロワゾーという芸術家が、AI(人口知能)のソフトを使い制作したもので、そのことは作者によって始めから明らかにされている

故郷シャルルヴィル=メジエールにあるランボー博物館の館長は、こうした試みは、« Il faut être absolument moderne. »(絶対的に現代的であること)と言ったランボーに相応しい、と語っているらしい。

芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 7/7 立石寺 月山 最上川 佐渡

『おくのほそ道』は、太平洋側を歩む行き旅と、日本海側に沿った帰りの旅という二つの行程によって、大きな構造が形作られている。
その分岐点となるのが、平泉と尿前。

平泉では、「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」の句によって捉えられた「無常な時の流れ」(流行)と、「五月雨の降(ふり)のこしてや光堂」の句が感知させる「不変・永遠」(不易)とが、古代の英雄や中尊寺の金色堂を通して詠われた。
それに対して、後半の旅の開始となる尿前の関で、芭蕉は悪天候のために門番の家に3日間も泊まることになり、「蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと」といった、卑近な題材を俳句として表現する。
この明確な対比を境にして、芭蕉の旅は後半に入る。

尿前の関から日本海側に抜けるためには、尾花沢の近くにある大石田で船に乗り、最上川を下っていくという行程が考えられる。
芭蕉もその旅程を取るのだが、しかし、二か所で寄り道をする。
まず、尾花沢からすぐに船に乗らず、立石寺を訪れる。
大石田で船に乗った後、出羽三山(白黒山、湯殿、月山)を訪れるために、いったん船を下りる。

太平洋側の旅では、時間の経過によって失われたもの(流行)と、永遠に残っているもの(不易)が別々に捉えられてきた。
ところが、蚤、虱、馬の尿から始まる後半の旅の始まりにおいて、山中を横切りながら、芭蕉は流行と不易が一つであることを悟っていく。
弟子の去来(きょらい)が伝える言葉で言えば、「不易と流行は元は一つ」(「去来抄」)。
それが日本海側の旅の中で、どのように表現されているのか見ていこう。

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アルチュール・ランボー 吐いた泥までが煌(きら)めく詩人 2/3 『地獄の季節』

『地獄の季節』は、1854年10月生まれのアルチュール・ランボーが、1873年、19-20歳の頃に書き上げた散文詩集。

1871年9月、17歳直前のランボーはポール・ヴェルレーヌと出会い、その翌年からはベルギーやロンドンで共同生活を送った。
その生活は、1873年7月10日、ブリュッセルにおいてヴェルレーヌがランボーに発砲するという事件によって終結する。

『地獄の季節』の最後に「1873年、4月-8月」と記されているが、その日付は、詩集がヴェルレーヌとの波乱に富んだ関係の中で構想されたことを教えてくれる。

ちなみに、ヴェルレーヌの有名な詩「巷に雨が降るごとく/わが心にも涙降る」のエピグラフには、ランボーの「街に静かに雨が降る」という詩句が掲げられ、二人の詩人が相互に影響を与え合っていたことを示している。

彼らの最も大きな点は、音楽性の重視。
ランボーとヴェルレーヌの詩句においては、言葉の持つ音楽性が際立ち、大変に美しいフランス語の響きを聞かせてくれる。

他方、大きな違いもある。
ヴェルレーヌはあくまでも韻文詩の枠内に留まったが、ランボーは素晴らしい韻文詩を書きながらも、そこに留まることなく、「散文」による詩へと表現の幅を広げていった。

「散文詩」の試みは、19世紀後半には非常に革新的なものだった。
フランスでは、詩は「韻文」であることが不可欠な条件であり、「散文詩」というジャンルは、1850年代の半ば、シャルル・ボードレールによって展開されたものだった。
その際に前提として知っておくべきことは、詩的散文、つまり詩を思わせる散文はあくまで散文であり、詩ではないということ。
(まれな例だが、現在でも、詩は韻文でなければならず、散文詩は存在しないと主張する研究者が存在する。)

では、散文で書かれた作品を、どのようにして「散文詩」という一つの文学ジャンル」として認めさせるのか?
韻文でなければ詩として認められなかった時代、それが大きな問題だった。
『地獄の季節』の散文は、その問題に対する一つの解答に他ならない。

ただし、いかにもランボーらしく、自費出版の約束でブリュッセルの出版社に原稿を渡しながら、1873年10月に印刷製本が終わった時、費用の残額を支払わなかった。そのために彼は数冊を受け取っただけで、残りの500部近くはポート社の倉庫に残されたままになった。

その『地獄の季節』が、20世紀になると広く読まれるようになり、現在では世界中で最もよく知られた詩集であり続けている。文学における奇跡の一つと言っていいだろう。

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シャルルヴィルのランボー・ツアー

ランボーが死んだ頃、家族は恥ずかしい思いをしていたそうだが、今ではシャルルヴィル=メジエールの誇りであり、ランボーの足跡を巡るツアーも行われている。

Sur les pas d’Arthur Rimbaud à Charleville-Mézières

Charleville-Mézières, dans les Ardennes, est la ville natale du plus grand poète français, Arthur Rimbaud. 

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