井筒俊彦のエッセイ集を読んでいて、「温故知新」という最近ではすっかり忘れられた言葉に出会った。
「温故知新」。
使い古された表現だが、「温故」と「知新」とを直結させることで、この『論語』の言葉は「古典」なるものに関わる真理を言い当てている。
「古典」とは、まさしく”古さ’を窮めて、しかも絶え間なく”新しくなる”テクスト群なのだ。
“新しくする”もの、それは常に、「読み」の操作である。
(井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)
井筒が強調するのは、古いものは、「読むこと」によって、新しいものに「なる」ということ。
「読む」行為が、古いものを新しいものに「する」。
幾世紀もの文化的生の集積をこめた意味構造のコスモスが、様々に、大胆に、「読み」解かれ、組み替えられていく。現代の知的要請に応える新しい文化価値創出の可能性を、「温故」と「知新」との結合のうちに、人々は探ろうとしている。
(井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)
「意味構造のコスモス」といった井筒俊彦独特の表現が使われているために、難しいと感じられるかもしれない。
しかし、ここに記されていることは、「温故知新」という言葉が、「古いものをたずね求めて新しい事柄を知る」という、わかったようなわからないような解説ではなく、「古典」として評価が定着してきた価値ある伝統を、現代に生きる私たちが読み直すことで、新しい価値を産み出すという、能動的な行為を意味しているということである。